「距離は見ることの可能性である。」 「・・・画家ジャコメッティの課題は、逆に、見ることの可能性を、見ないことの不可能性に向かって解き放つことでなくて、なんでありうるだろうか、だが、それははたして可能だろうか。」 『鏡・空間・イマージュ』宮川淳 水声社 ISBN 4-89176-202-0
子供が生まれたころ、その泣き声がなぜだか愛おしくてたまらず、思わず携帯の着信音に設定してしまい、それが、会社の社員食堂で鳴り響いた時は若干、焦った。 赤ん坊の夜泣きをあやすのは確かに辛い時もあったが、総じて、あの小さな体を全身振るわせながら、何かを必死に伝えようとしている、その動物的な生命力にはただただ感動せざるを得なかった。 数年後、5、6歳の頃か、お絵かきが上手くできない、と癇癪をおこし、一人で大泣き。家族を部屋から追い出して、一人閉じこもるものだから心配していると、し
ネットにも書店にも、新社会人、新入社員、におすすめの本、が並ぶことが多々。 役に立つのか立たないのか分かりかねるマナー本、ビジネス本、自己啓発本がたくさんあるようで、自分も今から勉強してみようかしら、と思わぬことも無いが、もし本当にこれから、新たな環境で仕事、勉強を開始しようとしている若者がいるなら、下記をおすすめしたい。 これまでの人生で一番大好きな本。これを再読するに限る。 大好きな本が見当たらなければ、一番感銘を受けた本でも、一番印象に残っている本でも構わない。 小
人生に意味があるか、と問われれば、無いと思う、と答える。 ただ、人生に自分なりの意義を見出す自由はある、と補足する。 誰にも定義されず、テキストブックにも答えは載っていないけど、自分にとっての意義を見出すことができ、それを見出した瞬間、人生は段違いに面白くなる。 人生についての意味も意義も問う間もなく、あくせくと人生を終えることもあるだろう。 尚かつ、なかなか楽しい人生だった、と言うことも多いにありうる。 あってもなくてもいいけど、見つけっちゃったら見つけちゃったで、人生
どうも、距離についてのマニア化が止まらず、というか、マニア化しきれていない故の消化不良がとまらないので、ちょいと無謀ながら、MeetUpで、雑談を開始することに。 ご興味のある方は覗いてみてください。 参加者が誰もいなければ… おそらく、自身の興味と世間の間の距離について、沈思黙考する時間に当てたいと思います…
Noteの記事としては、半年ぶり、とインターバル(距離)を経たが、この間、ずっと寝ていた訳でもなく、国をまたいだお引っ越しやら、本業におけるいろいろやら。 ちなみに、新しいおうちは、海の見えるバルコニーで、仕事ができること、を最優先に探していたのだが、ようやく念願かなって、ほぼ毎日、海を眺めて、こう、仕事をしている、いや、ぼーっとしている。 (正確にいうと、海の前の樹々があるので、海は端っこの方にかろうじて見えるだけだけど…) ワンルームタイプのアパートの一室で、それも広く
*今回は、前回同様、ロシア・ウクライナ危機について触れつつも、より私的な思いについて。 *同時に、シラス、ゲンロン、東浩紀氏の思いへの共感も含め。 【緊急企画】東浩紀+上田洋子「『ゲンロン』<ロシア現代思想特集>再読——21世紀のロシアの思想界はどうなっていたか?」 @hazuma @yuvmsk #ゲンロン220301 https://note.com/distancology/n/n7c9cc7b28fa0 前回、ロシア・ウクライナ危機についてコメントした後、さらに
*現時点(2022年2月28日早朝)で、まさに現在進行中の国際的な危機・戦争・侵攻であり、国際政治等に疎い一般市民が一般報道により知り得る範囲の情報を元に記す記事です。ご了承下さい。 *また、参考とする動画、Web上の記事の信憑性の検証作業は残念ながら現時点で行っていません。普段からおおよそ信頼に値すると判断して利用している情報ソースからのものもあれば、ネット上の簡単な検索を通じて行き着いたまま、掲載しているものもあります。不適切な情報があればご指摘下さい。 *そのような
限りなく、平凡で月並みな話になることをあらかじめ断っておきたいが、親と子の距離は、永遠のテーマだ。 自分と、自分の親との距離 自分にとって、自分の親との距離は、当然さまざまに色合いを変えながら、近づいたり遠のいたりした。 ごくごく単純に説明してしまえば、幼少期に、ごく密接にいた両親にも、次第に物心がつき始めた頃から、その言葉が示す通りに、徐々に心理的に「距離」を置き始め、大学入学に伴い、両親の元を離れて都会で暮らし始めたことをきっかけに、物理的にも「距離」を置いた。 学生
(ネタバレあり) ドラマ『コントが始まる』 を、Netflixでまとめて視聴。 最近のテレビの連続ドラマは、どこか、マーケティングを意識した「『意外な結末』という名の予定調和感」に溢れてる気がしてならないなぁ、と偉そうな感想を抱きつつ、まあ、そういう制作者側の意図にまんまと乗せられて鑑賞するのもまあいいか、と、普段からあまり肩肘張らずにみるようにもしており、ドラえもんでも日本沈没でも失敗しない女医の話でも、柔軟に立ち位置変えながら見ることが多い。 が、この作品、意外な角
「距離」、「距離」とつぶやいて何が楽しいのか? とにかく、最初から言い訳のように、 「距離しか語らず、あるいは、距離を通した世界のみ。世の中の大切そうなことから、ちょっと距離を置いて、肝心の対象にも目もくれず、対象と対象の間にある何かについての、ほぼ独り言。原則、一週間に一回という距離で。」 と断っているので、勝手にすればいい分けであり、そもそも、そんな偏執的な興味や独り言に耳を傾ける人がいるとも思ってはいないのだが、それでも敢えて、こういうPublicな場で書くからに
海外赴任 になったのが、11年前だったか。東日本大震災の後、フクシマの行方を気にしながら、家族で東南アジアへ。 当時、4歳、6歳の娘を連れて、何もかも新鮮な毎日。家の中を走り回るヤモリにキャーキャー騒いでいた日々が懐かしい。 インターナショナルスクールに入れてみた子供達。初日から絶好調ウキウキの上の娘、一方、お腹が痛いとトイレで泣いたこともあった下の娘も卒園式では、誇らしげな笑みを見せた。 お引越し 彼の地で4年を過ごした後、近隣の別の国に家族でお引越し。 テロ騒ぎもあ
商品としての「本」 こう見えても(見えませんが)、私も、齢50を超え、流石に多少は分別もついたかと思っていたが、いまだに「これまでお前はそんなことも考えたことが無かったのか」と自分でも愕然とすることが、ごく、たまにある。あくまで、「たまに」であって、しょせん一日に3回程度くらいではあるが… 先日も、書物というのが、実は、お金で流通する商品の一つである、商品の一つにすぎない、ということにふと気づき、逆に今まで、どうしてそういう認識に至らなかったのか、と、50年あまりの人生が走
(ネタバレあり。) 映像が優位な映画いかにも観客をあっと言わせる豪華な風景、見事な存在感の役者がそろい、飽きさせない起承転結プロット、笑いもある、涙もある、さらに終盤には、想像通りの「予期せぬ」大どんでん返しで、見事なハッピーエンド。みたいな映画が多いのは、産業として進化する映画の宿命なのかも知れないが、とにかくこれでもか、と要素やサービスが満載だから、映画本来の映像に、じっくり没入する機会が減っているように感じている。 確かに、楽しませてもらいましたよ、とは思うが、まるで
仕事に行き詰まった時、ふと、立ち止まって次の一歩を踏み出すのに逡巡するとき、自分の原点に帰るために、昔の写真を振り返ることがある。 お恥ずかしい話ながら、それは、10年以上前、子供たちが小さかった頃、暖かい春の日、近所の道端で撮影した、言ってみれば、なんとはない日常のスナップ写真だ。 二人の子供は当時、4歳、2歳ごろか。 今と違い(?)、純真そのものの当時の子供たちは、おそらく父親に対する全幅の信頼のもと、なんらの混じり気もない眼差しでこちらを一心に眺め、微笑んでいる。
距離学、と、とりあえず名付けて、何かしらの知的活動? Movement? Dialogue? 独白? 考察? をする上で、さて、実はいろんなアプローチがあると思う。 A. 何かと何かの隔たり、と言う意味での「距離」単体単純に ・人と人との距離 ・子供と親との距離 ・男と女の距離 ・「男と女」と、「多様性のある性のあり方」の距離 ・国と国の距離 ・地球と月と太陽の距離 といった、想像のしやすい距離だけでなく、 ・シニフィアンとシニフィエの距離 ・メンタルとフィジカルの距