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懐かしのスナップ写真に宿る距離
仕事に行き詰まった時、ふと、立ち止まって次の一歩を踏み出すのに逡巡するとき、自分の原点に帰るために、昔の写真を振り返ることがある。
お恥ずかしい話ながら、それは、10年以上前、子供たちが小さかった頃、暖かい春の日、近所の道端で撮影した、言ってみれば、なんとはない日常のスナップ写真だ。
二人の子供は当時、4歳、2歳ごろか。
今と違い(?)、純真そのものの当時の子供たちは、おそらく父親に対する全幅の信頼のもと、なんらの混じり気もない眼差しでこちらを一心に眺め、微笑んでいる。
この子供達の父として、いい加減なことはできまい、そんな気分になるのか、過去の、とある時期に対する猛烈な郷愁なのかは不明だが、そうやって、何かしらの原点に戻る、そんな気持ちにさせてくれ、一息つける。
ところで、この写真、自分は、あくまで子供達、それも過去のある時期の子供達を見つめている。今の子供達ともちょっと違う。
正確にいうと、当時の子供達の視線の先にいるのは、今の自分ではない、過去の自分だ。
その意味で、自分から、二重の視線が子供達に降り注いでいる
昔の自分 <ーーー> 昔の子供達
今の自分 <ーーー> 昔の子供達
しかし、当時の彼女たちの網膜には、自分がどう写り得ていたのだろう。彼女たちもすっかり忘れているだろうが、そんな当たり前の事実(当時の彼女たちの視線の先に自分がいた、という事実)に、最近まで思い至らなかった。
考えてみれば、今と昔の二つの状態を、自分と子供達に当て嵌めれば、案外複雑で、いろんな距離が飛び交っている。(それを、無粋に、ここには6つの距離が存在する、とまでは言わないが…)
<昔の自分> ↔️ <昔の子供達>
↕️ ↘️ ↙️ ↕️
↕️ ↗️ ↖️ ↕️
<今の自分> ↔️ <今の子供達>
もしかして、過去の子供達の、さりげないスナップ写真が、ここまで自分を捉えて離さないのは、その写真から発信される、このような縦横無尽な距離があるからなのかもしれない。
単純に、ある時制のそれぞれの人格同士の距離だけでなく、今の自分と、(相手側は)「『過去から現在に変化し続けている子供達』という一つ次元の繰り上がった存在」との距離、もある。
一枚のスナップ写真に織り込まれる、重層する距離。
(それらが、折り重なって自分に迫ってくる時、自分と、一枚のスナップ写真との距離をも議論すべきかも知れぬが、それはまたの機会に。)
いずれにせよ、結果として、自分の中で下記が問われる。
今の自分 <ーーー> 昔の自分
一体、今の自分は、かつての、あの未熟だった自分から、どう変わり得たのか? と。
ちなみに、無粋に図式化はしてみたが、自分にとって子供たちは、昔も今もないまぜのままだ。生まれた瞬間から、写真の撮られた昔の子供時代を含め、昨日まで、全てを積み重ね、いわば積分されたような存在。
実は、昔の子供達と今の子供達を分けることはできない。
それでもなお、その存在を、暴力的に距離として切り取って見せる、写真というメディア。
自分はあまりポートレート写真を撮るのが苦手なのだが、もしかすると、そうやって、たまに、自分を切り取って見ること、強引に、今の自分から切り離して距離をとること、それも重要な作業なのかもしれない。
脱線したが、果たして、過去のスナップ写真を見つめることで、原点に返り、かつての自分と今現在の自分との距離を見つめ直し、改めて、今自分が何をなすべきか、が見えてきたかどうか。
参考までに、原点だけでなく、一つの目標、ある種のゴールとしての写真もセットで見つめることが多い。
家族でかつて訪れた観光地で食事をするために訪れた湖畔のレストランからの眺めた夕景。
また、いつの日か、ここを訪れて、夕日を眺めたい。
果たしてその時、自分は何を思うのか。
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