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距離マニア
「距離」、「距離」とつぶやいて何が楽しいのか?
とにかく、最初から言い訳のように、
「距離しか語らず、あるいは、距離を通した世界のみ。世の中の大切そうなことから、ちょっと距離を置いて、肝心の対象にも目もくれず、対象と対象の間にある何かについての、ほぼ独り言。原則、一週間に一回という距離で。」
と断っているので、勝手にすればいい分けであり、そもそも、そんな偏執的な興味や独り言に耳を傾ける人がいるとも思ってはいないのだが、それでも敢えて、こういうPublicな場で書くからには、やはり、いくつかの理由と、未だ本人にも分かり得ていない動機がある。つまり、
「距離」は、今の時代のキーワードであり、今「距離」について考えることが、世界を良くすることに、ほんのちょびっとだけ貢献する
と、心のどこかで考えているからだ。
で、それを、なんだか、中途半端に、間欠的にぼやくから始末が悪い。
もちょっと具体的な取り組み
無論、「世界を良くすることに、ほんのちょびっとだけ貢献する」と言っても、あんまり大それたことを考えている訳ではなく、どちらかというと、「鉄道が3度の飯より大好きで、それしか目に入らない人」が、「鉄道の世界観を、語ったり、ジオラマで表現したりすることで、世界を少し平和にし(それを証明する明快なロジックは決して成立し得ないのだが…)、かなり限定的ではあるが一部の人を幸せにし、さらにある種のコミュニティの場を作ることで、自身の人生の大事な部分を埋められる気がする」と感じる(と想像しています、すいません、違っていたら…)のと、似ているだろう。
という訳で、かなり偏執的だとはいえ、壮大な目的を、無意識下に備えているとも言える、当Noteにおいて、より具体的な展開を考えてみたい。
上記「距離学で考えてみること」なんて、それがなんなんですか? と言ったところな訳で、もっと具体的なジオラマの点景をどう作り込んでいくか、という実作業ベースの話。
と、関係の無い話を勿体ぶってダラダラ書くのが悪い癖だが、そんな前振りは関係なく、さっさと記すと、まずは、以下の2点から始めたい、多分、もう始めている。
○○の中の「距離」(分析)
〇〇という「距離」(まとめ)
○○の中の「距離」(分析)
これは、今までも、おりおり記してきた、たとえば、映画の中の距離、絵本の中の距離、といった話。
「映画の中の距離」、で言うと、
など。他にもあるでよ。
それ以外のテーマで言うなら、と探してみて、あ、言う程ないじゃん、と気づく。
たとえば、「児童文学の中の距離」。うむ、これだけか…
いずれにせよ、ある意味、何らかの具体的な作品、あるいは何らかの相対的なカテゴリーに対して、「距離」と言う言葉をキーワードに、深堀してみる、と言う行為。
これ、やって見ると、意外な発見が、本人にとってはある訳で、楽しいというと「お前、距離マニアだな…」と言われそうだが、一種の分析手法になりえるんじゃないかな、とも思う。
〇〇という「距離」(まとめ)
で、それをある程度続けると、結局、
映画とは距離である
児童文学とはつまるところ距離である
全てのArtとは、全て距離なのである
と、安直に言いたくなる。言えてしまう。大文字の「距離」って言うと誤解があるか。
「いや、言えてしまうのは、そら、勝手やわ。んなこと言ったら、大概、最近の駅前の本屋に平積みしてある本の帯にも、似たようなこと書いてあるやろ。なんか、それ重要そうに訴えてるけど、結局、何が言いたんか、さっぱりわからん…」と言われるんだが、じゃ、それを、そう言い切ってしまうことで、どんな発見があるか、が重要な訳だ。
残念ながら、知性に憧れつつ、致命的に、その知性そのものに真正面からぶつかったことのない、小心者の小生にとって、その「どんな発見があるか」、が見えていない。
誰か、知ってる人がいたら教えて欲しいくらいだ。それか、「ざんねん、その先、発見は無いですよ〜ん!」でもいいし。
とはいえ、それを探すために、この場を借りて、雑文を重ねている、のが実情。
もっと先の展開
というわけで、実は、映画や、児童文学以外に、どんどん、分析とまとめの対象を広げたいのだ! たとえば、
家族の中の距離とは?(分析) ---> 「家族」という距離(まとめ)
社会の中の距離とは?(分析) ---> 「社会」という距離(まとめ)
宗教の中の距離とは?(分析) ---> 「宗教」という距離(まとめ)
国家の中の距離とは?(分析) ---> 「国家」という距離(まとめ)
世界の中の距離とは?(分析) ---> 「世界」という距離(まとめ)
違う観点で言うなら、今ある学術分野・体系を、別の観点から再構築(リストラ)することだって出来ないか?
経済の中の距離とは?(分析) ---> 「経済」という距離(距離経済学)
心理の中の距離とは?(分析) ---> 「心理」という距離(距離心理学)
政治の中の距離とは?(分析) ---> 「政治」という距離(距離政治学)
歴史の中の距離とは?(分析) ---> 「国家」という距離(距離歴史学)
法律の中の距離とは?(分析) ---> 「法律」という距離(距離法学)
教育の中の距離とは?(分析) ---> 「教育」という距離(距離教育学)
言葉の中の距離とは?(分析) ---> 「言葉」という距離(距離言語学)
ほらね、バカほど怖いものはない、とはいうが、経済学も心理学の政治学も歴史がくも法学も教育学も言語学も習ったことがなく、何の知識も無いのに、偉そうなことを言う。
でも、もしかしたら、なんか無いかな、と言う、幸福な誤読を期待してる自分もどこかに。
いや、多分、既にある、学術分野を、「距離」と言うキーワードに偏執しながら読むとどうなる? てだけかも知れませんが。
さらにさらに、その先の野望とは…
ここまででも、もう、自分でも嫌になるくらいに呆れているのだが、でも本当はその先に、
結局、「距離」とは、何なのか?
そしてその先、「距離」というキーワードから、今後の世界を考えると、我々にはどんな未来が待ち構えているのか?
を考えてみたい、と言う野望が無くもない。
そもそも、このNote上で、今、もっとも語るべきかも知れぬ課題の一つが、Covid-19が炙り出してきた、様々な「距離」であって、あまりにもテーマが大きいので、あえて、触れられずにいる。
Social Distancingと言う言葉自体が、「距離」と言う課題を前面に提示している訳だが、結局、Covid-19は、既に記したような距離全てを炙り出してきたのではないか?
家族の中の距離
社会の中の距離
宗教の中の距離
国家の中の距離
世界の中の距離
「経済」という距離
「心理」という距離
「政治」という距離
「国家」という距離
「法律」という距離
「教育」という距離
「言葉」という距離
今こそ、我々は、社会全体で改めて「距離」を問い、「距離」について真剣に考えてみるべきではないか。
かつて、フランス現代思想に端を発したか、「表象」と言うキーワードが流行したことがある。「表象文化論」と言う言葉は今でも、大学の学部、学科に採用されているほどだ。
「表象」と「距離」。これが対を成すものなのか、あるいは、全く、交錯すらし得ぬ概念なのか。
はたまた、「距離」は、「表象」が注目する前の古典的な概念に過ぎないものなのか。
知性に憧れつつ、決定的にその知性を欠いているが故、単なる偏執狂的マニアと化しつつあるが、憧れは憧れの先に昇華させるべく、一歩ずつ歩みながら、今しばらく、この「ほぼ独り言」を続けたい。
(万が一、奇特な同好の士、あるいは「そんな朝知恵は既に過去の本当の賢者が論考済みで時代遅れだから、もう辞めたまえ」とアドバイスしてくれる心優しい知識人、「本当あほだから仕方ないなぁ、まずはここから勉強したまえ」と指南してくれる先輩、などいらしたら、大歓迎… よろしくお願いいたします。)