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【おすすめ本】運命は、子どもが石を蹴るように(コルタサル/石蹴り遊び)
年内は日本にいます📗
今回紹介する本はとにかく変わった一冊。まずは書き出しをどうぞ。物語のふくらみが見事な、大好きな書き出しです。
ラ・マーガと会えるだろうか? たいていぼくが出かけてセーヌ通りを行き、コンティ河岸に出るアーチをくぐれば、すぐにも、川面に漂う灰色にくすんだオリーヴ色の光の中に彼女の姿が見分けられたものだ。
アルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914-1984)の「石蹴り遊び」。とにかく変わった構成のせいで、テーマが話される機会が珍しいほど。一言でいうと、これは二つの読み方がある一冊の本なのです。
今回は本書を「読み方」と「テーマ」に分けてご紹介します。長いけど(約3,000字)、文章がすごく良いので、引用部分だけでもぜひ。
▼▼今回の本▼▼
1. 読み方について
本書は3部構成で、155の章から成ります。
第1部「向う側から」(第1章から第36章):アルゼンチン人の主人公オリベイラがパリでラ・マーガと恋に落ち、別れる。
第2部「こちら側から」(第37章から第56章):アルゼンチンに戻ったオリベイラがラ・マーガを探し求める。
第3部「その他もろもろの側から」(第57章から第155章):物語の本筋と一見無関係に見える99の断片。
冒頭では二つの読み方が提示されています。
読み方1:第1部と第2部(第1章から第56章まで)を順番に読んでいく方法。この場合は第3部を「なんの未練もなく放り出してもかまわない」とのこと。
読み方2:指定された順番で第1部から第3部の各章を読んでいく方法。(第73章-第1章-第2章-第116章-第3章…という雑多な順番)。
読み方2の場合、例えば第2章と第3章の間に短い第116章が挟まります。読者は24ページ→492ページ→29ページを行ったり来たりしながらこの本を読み進めることになる。物語の合間に一見意味不明な断片やサイドストーリーが挟まるわけです。
何の意味が? と思われるかもしれません。ところが、読み方2の内容は読み方1とまるで変わってきます。先が気になる場面で長めの断章が挟まって「早く次を読みたいのに!」と待ちきれない気持ちにさせられたり、知らない人名が第3部で出てきたと思ったら、第1部の次の章でその人物が「初登場」したり。読み方2では出てくるけど読み方1では出てこない章、なんてのもあります。
でも、そんなのは序の口。この形式は本書のテーマと深く結びついています。ある章から別の章へと飛ぶように読むことを促される読み方2はまるで下図の「石蹴り遊び」のよう。
そう、いわば、この本はそれ自体が巨大な石蹴り遊びなのです。
2. 「石蹴り遊び」とは
本書のテーマは「聖」(向う側)と「俗」(こちら側)。
そもそも石蹴り遊びとは、地面に書いた「地」のマスから「天」のマスまで小石を蹴り進めていく子供の遊びです。本書はこの遊びを俗なるものから聖なるものに向かう過程の隠喩として、主人公オリベイラの精神的思索になぞらえています。
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でも、地から天は決して一直線に「昇っていく」過程ではない。むしろ、天と地という別次元のものが同一平面上である地面に存在することに、作者は石蹴り遊びの意味を見出しているようです。
(…)そうして<地>から<天>へ四角いわくはすべて開かれていて(…)<天>と<地>が石蹴り遊びの汚い歩道において同一平面上にあるように(…)おそらくいつかは<天>という言葉が脂に汚れた布巾ではなくなる世界へ入り、いつかは誰かが世界の実相、この上なく綺麗な模様を見るだろう、そしておそらく石を蹴って進むうちに、ついにキブツへ入って上がりとなるだろう。
人間の頭上に存在するような<天>は「油に汚れた布巾」であり、その聖性を否定した先にこそ、本当の聖なる存在がある。真の<天>と<地>は表裏一体だ、と作者は言います。この態度は、子供の遊びである石蹴り遊びに聖性を見出すところに現れていると言えるでしょう。
3. 聖なるものを求めて
主人公オリベイラは恋人ラ・マーガに聖なるもの=<天>を見ました。ただし、そのラ・マーガは博識多彩ではなく、無知で奔放な女性として描かれています。それはコルタサルが聖なるものを人間の俗なるものの中に見出しているからです。コルタサルは「人間顕現」という言葉でそれを説明しています。
でも、主人公オリベイラ(議論大好きなひねくれ者)にとっては、聖なるものとは難解な議論の果てに辿り着く崇高な場所でした。彼には、めざすべき高邁な理想である<天>が、ラ・マーガの赤ちゃんロカマドゥールの泣き声と同じ次元にあると考えるのは、耐えられないことだったのです。彼は嘆きます。
言葉抜きで言葉に到達すること(なんと遠く、なんとありそうにないことか)、論証的な意識抜きで深遠な単一性を感得すること。結局それはいまこうしてマテ茶を吸引し(…)お尻になにかされるのが絶対に気にいらないロカマドゥールの火のついたように泣き叫ぶ声を聞いているのとまったく変らない感じなのではないだろうか?
オリベイラは彼女と別れるしかありませんでした。でも一方では、自分が聖なるものを失ったと気づいているのです。故郷アルゼンチンに戻った彼は、ラ・マーガを探し求めて遍歴を始めます。そして、いつしかラ・マーガは彼の中で聖なる存在に昇華されていくのです。
(…)ラ・マーガは、失われた対象であることを止めて、あり得べき再会のイメージとなるだろう――もっとも、もはや彼女とではなく彼女のもっとこちら側かあちら側とだ。つまり彼女を通して、しかし彼女ではないものとだ――。
彼女を通して、彼女ではないものと再会する。会いたい、でも会いたくない。オリベイラの心中は複雑です。彼女と再会した時には「聖なるもの」の真実を、自分の思索が根本から誤っていたことを思い知らされるから。彼とラ・マーガはかくしてすれ違い続けます。
ぼくら二人はね、マーガ、一つの構図を成しているんだ、きみはある場所の一点、ぼくは別の場所の一点で、互いに排斥しあいながら、きみがいまおそらくユシェット通りにいるとすれば、ぼくはいま誰もいないきみの部屋でこの小説本を見つけているし、あす、きみがリヨン駅にいるとすれば(もしきみがルッカに行こうとしているだならだけどね)、ぼくはシュマン・ヴェール通りにいることだろう。
「わからない」とオリベイラはタリタではない誰かに向かって言った。「わからない、はたしてきみが今夜ぼくにあれほど憐れみを吐きかけてくれた人なのかどうか。わからない。結局、金盥四、五杯をいっぱいにするまで愛について涙を流しつづけるべきかどうか。それとも、きみのためにみんながそれだけの涙を流してきたように、それだけの涙をきみのために流すといい」
これはオリベイラが聖なるものをひととき手に入れ、失い、それを追って彷徨する物語。厄介なことに、彼はその願いが運命であることを求めてもいるようです。
僕がp.352の文章を読んだのは薄暮で、日帰りで行った鎌倉駅から東京駅へと走る電車に乗っていました。窓の外に広がる単色の闇を眺めてぼうっとしていると、トンネルを抜けたのか、突然、街のネオンが煌めきました。
それはまるで一枚の絵が透けて奥の世界が浮かび上がってきたようでした。聖なるマスの「向う側」にある世界がすがたを現した気がしました。
(おわり)
▼▼前回の本▼▼