両手に抱えた分厚い冒険
新しい本を手に入れる。
それは新たな未知の冒険を手にしたのと同じことを意味する。
つまり本が厚ければ厚いほど長く壮大な冒険が私を待ち受けていることを意味していて、だから同じ内容でも上下巻に分かれているらしい日本語訳の『白痴』(F・M・ドストエフスキー)よりも一巻完結で約五センチメートルの厚さでずしりと重さを実感できるチェコ語訳の『白痴』のほうがロマンがあると勝手なことを思っているし、確か京都で大学生をしていた頃に買って今も実家のどこかに収納されているはずの『細雪』(谷崎潤一郎)の文庫も三冊に分かれているものではなく一巻にまとめられた分厚いものだったと記憶している(この本のことはすっかり忘れていたのだが、最近ある方が思い出させてくださった)。
なぜ今このような話を始めたのかと言うと、先週大興奮で(この興奮が伝わっていたかどうかは定かでないけれど、私は興奮していた)投稿した『その名はカフカ 2』の完成紹介記事をお読みになって
「そんな厚くて重い本にするよりも、同じ内容を二冊に分けて安く小売りできるようにすれば良かったんじゃないの」という感想を抱かれた方もいらっしゃるのではないかと思ったから。
自費出版でより多くの人に手に取ってもらおうとしたら、よりコンパクトな本にしてより気軽に購入してもらえそうな価格を設定する、という発想をすべきなのだろうとは思う。
しかし私は「自分の書いたものを自分が理想と思う形により近い状態に仕上げる」ことを優先した。
最も理想の形はやはりハードカバーか。
今年一月に『その名はカフカ』第一巻は100部印刷したのだけれど、今振り返ると「同じお金をかけて部数を10くらいに抑えてハードカバーでカラー挿絵、なんてやってもよかったかも」などとも思う。……いや、それではさすがに手に取ってほしい方々全員には行き渡らないか。
ハードカバーだったら、本の装丁もずっと違ったものにしただろう。私の所有するチェコ語翻訳版の『巨匠とマルガリータ』のような表紙で、タイトルの毛筆書きのみが飾られる表紙デザイン、とか。
本が厚ければ厚いほど壮大な冒険を手中にすることとなり、それはロマンである、と冒頭に書いたが、時には残念ながら冒険の最後まで付き合えないこともある。この『巨匠とマルガリータ』への偏愛を語った記事で、私のドストエフスキーコレクションをお見せしたが、実は『未成年』だけは厚さにして最後の1センチメートルほど、読み残している。主人公の性格にこれでもかと言うほど苛つかされ、完走を断念した。ファンの間では「ドストエフスキーの最高傑作」とささやかれているという『未成年』でこのようなことになるとは、と私は自分に失望した。
しかも『未成年』のチェコ語訳は今のところ1961年に翻訳されたものしか存在していない。それでますます読みにくいのではないか。私には2009年くらいから密かにファンを自称しているチェコ人のロシア語翻訳家がいるのだが、そのうち彼が『未成年』の新訳を出してくれるのではないか、と期待している。『罪と罰』も日本語で日本にいるうちに読んであるのでチェコ語で読む必要はないと思っていたのだが、昨年この翻訳家の手によるものが発売されて、迷うことなく購入してしまった。
実は上記の『巨匠とマルガリータ』の記事は当初から続編を書く予定があり、そこでこの翻訳家の方について熱く語ろうと思っていた。しかし書こうにもいろいろと自身の知識不足を補う必要が出てきて、書き進められない日々が続いている。このままお蔵入りかもしれない。
随分と脱線したが、当初はこの内容を『その名はカフカ 2』完成のお知らせ記事に入れようと思っていたのだ。……暑苦しいにもほどがある。あちらは宣伝記事として自分のページに固定表示できるよう、できるだけ畏まった記事にしてある(え、あれで?という声が聞こえたのは幻聴ではなさそう)。
きっと作者の我がままと自己満足で終わっているように見えているであろう紙の本『その名はカフカ』。実際、作者の自己満足のために作っているのだということをこそっとつぶやきたいがためにこんな記事を書いたが、もちろん私の自己満足に付き合ってくださる方が少しでもいらっしゃれば嬉しいし、実際付き合ってくださっている方々が存在するのはこの上もなく幸せなことである。