マキァヴェッリの「代表作」?
マキァヴェッリといえば『君主論』。
ですが、『君主論』が活字として出版されたのは、彼の死から数年後です。
マキァヴェッリが生きている間に「公刊」した書物は別の著作、しかも1冊しかありません。
その生前唯一の「代表作」こそ、今回取り上げる『戦争の技術』です。
題名どおり、この本では戦争に関わるさまざまな事柄が具体的に取り上げられています。
徴兵、武装、編成、会戦、行軍、宿営…
これら多岐にわたる分野について瑣末なことまで具体的に述べた部分が、本書の大半を占めています。
『君主論』から入って、ビジネス書として応用できそうな人間心理論やリーダー論を求めて本書を手に取った方は、残念ながら確実に期待を裏切られるでしょう。
正直なところ、軍事史に関心のうすい私のような門外漢にとっても、このような箇所に目を流していても頭に入って来ません。
このウンザリさせられる記述の中にある分だけ、かえって本書の中の中心的な政治的主張ははっきりと浮かび上がって来ます。
それは「自国に属する者で民兵を構成すべし」です。
この主張は、「軍事を生業とすることの禁止」と同じことを意味しています。
つまり、傭兵の雇用、そして常備軍をともに否定するものです。
政治と軍事両面での個別の主張が、この民兵論と結びついています。
軍事面では、例えば、軍隊教育での訓練・規律重視、会戦による敵戦力殲滅志向が挙げられます。
アマチュアである民兵を戦場に立たせるためには、定期的な訓練実施と規律の徹底が必要となります。
また、会戦を戦闘行為の主目的とする背景には、本業ではない戦闘に拘束する期間をできるだけ短くする配慮があります。
一方、政治面では、軍事規律を通した徳育・人間教育効果、軍事力を背景に自国を牛耳る家門・党派の登場への抑制が、民兵論の効果として言及されています。
これらは同時に、民兵論を擁護する理由にもなっています。
民兵論はマキァヴェッリの生涯を通じて主張される論題です。
その意義がもっともコンパクトに展開されているのが、この『戦争の技術』であると言えるかもしれません。
しかしその一方で、世間の意見に逆張りするような『君主論』や『ディスコルシ』での極端な行論と比べると、『戦争の技術』は淡々と主張が提示されている印象があり、なんとなくお行儀が良すぎる印象も受けました。
邦訳書について
邦訳の種類と特徴
アクセスがしやすい『戦術の技術』の邦訳は、4種類あります。
〈1〉浜田訳には、レオナルド・ブルーニの『民兵論』が併録。
(レオナルド・ブルーニは、マキァヴェッリより約100年前のフィレンツェの政治家・人文主義者。
『フィレンツェ史』をはじめとした歴史書・伝記、ギリシア哲学文献のラテン語訳がある)
〈4〉服部訳は、共訳者として翻訳した〈2〉全集版を、単独で改訳したもの。
どの邦訳で読むのが良さそうか
翻訳文章の良し悪しについては、〈1〉以外には大差ないように思われました。
〈1〉だけは、読むのを避けた方がいいレベルで翻訳がおかしいのではないかとと思われます。
(どうおかしいかは、また後日あらためて書こうかと思っています)
もし『戦争の技術』を読むならば、もっとも解説が充実している〈3〉か、もっとも安価で新刊書店でも手に入る〈4〉がいいかと思います。
『戦争の技術』
概要
1512年に政界から失脚したマキァヴェッリは、フィレンツェの名家子弟も数多く参加する知的サークル「オリチェッラーリの園」に出入りするようになっていた。
構成
ファブリツィオと「オリチェッラーリの園」のメンバーが登場する対話には、マキァヴェッリは一切顔を出していない。
マキァヴェッリが地の文を書いているのは、対話を導入する第1巻の冒頭と序文のみ。
本書は、序文と7巻で構成されている。
全集の解説によれば、ウェゲティウス『軍事論』の記述の配列にそった構成とのこと。
(ウェゲティウスは後4世紀の人物。
『軍事論』はクラウゼヴィッツ以前、西欧でもっとも流通した兵法書とのこと。
「汝、平和を欲するなら、戦争に備えよ」の格言が有名。
『軍事論』には邦訳がないようで、詳細については不詳)
関連する史実(各種邦訳の解説・脚注より)
●ローマのコロンナ家出身の傭兵隊長ファブリツィオ:1450年代生。1520年没。
実際にフィレンツェを来訪したのは、1516年8月末から9月初旬と推定されるとのこと。
●本書に登場し、その死まで言及されているコジモ・ルチェッライ。彼が亡くなったのは1519年。わずか25歳。
●1521年8月『戦争の技術』公刊。
●コジモ以外で登場する「オリチェッラーリの園」主要メンバー3名:
メディチ家出身の教皇レオ10世死去(1521年12月)を受けて、メディチ家に対する陰謀を画策するも、陰謀が露見して1522年に亡命。
読書ノート(注目ポイントの引用)
以下の『戦争の技術』からの引用には〈4〉ちくま学芸文庫版を利用、そのページ数を表記。
引用文は、特に記載がないかぎり、対話篇中のファブリツィオの発言。
(対話篇に登場するファブリツィオの見解は、著者であるマキァヴェッリの主張を仮託したものであるとして、素朴に読んで行きます。
もちろん、両者の見解の間に距離を見出す解釈は可能です。
ただし、そのような読み方は、他の著作との整合性などを考慮した高度な解釈を要求するため、ここでは考えないでいます。)
共和政ローマの模倣のすすめ
戦争を生業とすることへの批判/市民軍制の推奨
戦争を専門的に生業とする傭兵や常備軍をマキァヴェッリは否定する。
その代わりに、平時には別の生業に従事する人々を一時的に徴兵する市民軍制の採用を主張する。
古代における市民軍制の効用
古代のように市民軍制を採用した場合、軍隊生活は市民生活を二重の意味で益する。
他国の脅威から市民生活を防衛する役割を軍隊が担うだけでなく、軍隊生活のなかで市民生活に適した人間となるよう促されるからである。
市民軍制への反対論への反論
市民兵の能力への疑念と、市民兵を掌握した者が国家を牛耳る懸念が、市民軍制への反対論の根拠として例示されている。
市民兵の能力については、訓練の問題として退けている。
もう一方の懸念については、傭兵など市民兵制以外の方法でも同様の問題は存在すること、そして、市民軍制なら台頭に注意すべき対象が有力市民のみに限られる点で市民軍制以外よりマシであるとして反論している。
ローマ史の解釈
生業として戦争を利用することとの関連で、マキァヴェッリはローマの腐敗について説明する。
戦争を自身のために利用する風潮がポエニ戦争を機に生まれ、元首政期以降には軍人によって皇帝が左右されるまで腐敗したとする。
ヴィルトゥの歴史
マキァヴェッリは、戦争で傑出した人々が有するヴィルトゥという観点から、国家の盛衰を考える。
キリスト教による軍事への価値観の変化
軍事の目的=会戦
マキァヴェッリは軍事作戦の主目的を会戦に置いている。
歩兵と騎兵
マキァヴェッリは騎兵より歩兵を重視する。
大砲の評価
マキァヴェッリは大砲の威力に対しては高い評価を与えている。
ただし、大砲の使い所などを考慮して、全体的な評価には留保がなされている。
小銃の軽視
マキァヴェッリにおいて、歩兵とは小銃兵のことではない。
同じ火器でも、大砲とは異なり、小銃への評価は極めて低い。