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「そして種々のブラーフマンの不滅などの性質のゆえに無限なるもの(ブーマン)にふさわしい」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.9)


はじめに

上記の画像は、ヤージナヴァルキァ師が「ブラーフマン」をジャナカ王に説く場面のようです。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』も初代シャンカラ師が註解しているとのことなので、この『ブラフマ・スートラ』註解書の次にチャレンジしたいと考えています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章九節

9節 そして、ブーマンの特徴は(至高の自己にとって)適切である。

さらに、ウパニシャッドで言及されているブーマンの特徴は、至高の自己にふさわしいものである。たとえば、ウパニシャッドは、「それこそ、他の何も見ず、他の何も知らないブーマンである」(Ch.VII.xxiv.1)という一節で、ブーマンには見るというような行為がないことを知らせている。そして、 「しかし、ブラーフマンを知る者にとって、すべてが自己となったとき、人は何を見るべきであり、何を通して見るべきか」(Br.IV.v.15) から至高の自己に関係することがわかっています。先に述べた睡眠状態で見るような行為がないこと(Pr.IV.3)も、自己そのものの場合にはいかなる関係もないことを宣言するために行われたのであって、プラーナの性質を明らかにするためではない。なぜなら、そこで語られたのは、至高の自己の話題だったからである。また、その状態で語られた幸福(Pr.IV.6)は、至福そのものとしての自己の性質を明らかにする目的で述べられたものである。なぜなら、「これがその最高の至福である。この至福の一粒の上に他の存在が生きている」(Br.IV.iii.32)と言われているからだ。そして、ここ(チャーンドギア)でも「限られたものには幸福はなく、無限なるもの(ブーマン)そのものが至福である」(Ch.VII.xxiii)とあり、悲しみの混じった幸福を拒絶した後、ブーマンは至福であるブラーフマンに他ならないことが示されている。「無限であるもの(ブーマン)は不滅である」(Ch.VII.xxiv.1)という一節で聞かれる不死は、至高の原因を理解するように導きます。 なぜなら、被造物に存在する不滅は相対的な現実に過ぎず、別のウパニシャッドの「これ以外のすべては滅びる」(Br.III.iv.2)からも明らかである。同様に、ウパニシャッドで言及されている真理、神自身の自己の栄光の確立、遍在性、万物との同一性といった特徴もすべて、至高の自己だけにふさわしいものであり、それ以外のものにはふさわしくない。したがって、ブーマンが至高の自己であることが証明される。

最後に

今回の第一篇第三章九節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』そして『プラシュナ・スートラ』を以下にてご参考ください。

確かに、生気(プラーナ)は希望よりも偉大である。あたかも、車輪のスポークが中心の丸い部分である轂(こしき)に固定されているように、まさしく一切は、生気によって固定されている。生気は呼吸によって動き、呼吸は生気を与え、生気に呼吸を与える。父母は生気であり、兄弟姉妹は生気であり、賢者(師匠)も生気であり、バラモン(ブラーフマナ)も生気である。

(Ch.VII.xxiv.1)

(ヤージナヴァルキァ師)「なぜならば、二元性のあるところでは一方は他方を見て、嗅ぎ、味わい、話しかけ、聞き、考え、触れ、認識する。しかし、一切が自分の真我になりきったところでは、人は何によって何を見るべきだろうか?何によって何を嗅ぎ、何によって何を味わい、何によって何に話しかけ、何によって何を聴き、何によって何を考え、何によって何に触れ、何によって何を認識するのだろうか?一切のものを知る存在を、人は何によって認識できるだろうか?それは“それではない、それではない”と真我によって認識されるのである。真我はとられられない故に、不壊なのである。真我は自身に執着しないものの故に、無執着なのである。苦痛を感じず、傷つきも悩みもしないのである。人は何によってこの知る者を知ることができるのだろうか?お前は以上の教えを受けたのである。マイトレイーよ、以上がまさに、永劫不死なるものなのだ」

このように説いた後にヤージナヴァルキァ師は立ち去ったのである。

(Br.IV.v.15)

かの神(意)が光明(ウダーナのこと)によって圧倒されたとき、その際には彼は夢を視ない。そして、その肉身の中にかの幸福が生ずる。

(Pr.IV.6)

(更に)ヤージナヴァルキァ師がジャーナカ王に教えた。
「彼の神人は水のように(透明に)なり、唯一不二になる存在にして、観るものなのです。これこそが、絶対者ブラーフマンの世界なのです、王様」

(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)「これこそが神人の最高の境地であり、最高の栄光であり、最高の世界であり、神人の最高の歓喜なのです。他の生類はこの歓喜の少しばかりの分け前にあずかって生きているのです」

(Br.IV.iii.32)

(サナトクマーラ師)「その幸福とは実に豊富(ブーマン)ということである。欠乏の場合に、幸福はない。豊富(ブーマン)こそ幸福なのである。しかし、豊富(ブーマン)こそ認識しようとされるべきである」と。

(Ch.VII.xxiii)岩本裕

(サナトクマーラ師)「人が他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しないところはどこでも、それが無限なるもの(ブーマン)である。しかし、人が他のものを見、他のものを聞き、他のものを認識するするところはどこでも、それは少ないものである。無限なるもの(ブーマン)は不死である。しかし、少ないものは死すべきものである」

(Ch.VII.xxiv.1)

チャクラ師の息子のウシャスタ師はすると、次のような質問を投げかけました。

(ウシャスタ師)「牛というのは斯くなるものである、馬というのは斯くなるものであると言うが如きに、あなたは説明されました。どうか更に詳しく、直観によって直ちに理解できる絶対者ブラーフマンを私に分かるようにしてください。つまり、万物の中に宿られる真我(アートマン)をです」

(ヤージナヴァルキァ師)「万物の中に宿られている真我(アートマン)が、あなたの真我(アートマン)である」

(ウシャスタ師)「ヤージナヴァルキァ師よ。万物の中に宿られている真我(アートマン)とは、いかなるものなのですか?」

(ヤージナヴァルキァ師)「あなたは、観ることの主体である観るものを、観ることはできない。考えることの主体である考えるものについて、あなたは考えることはできない。知ることのできる主体である知る者を、あなたは知ることができない。斯くの如きものが、万物の中に宿られているあなたの真我(アートマン)なのである。これ以外のものは死滅していくものなのである」

ここにおいてチャクラ師の息子のウシャスタ師は沈黙しました。

(Br.III.iv.2)

今回の九節を要約すると

そして、天啓聖典に教示されている種々のブラーフマンに関する普遍や不滅、そして、不二一元などの性質のゆえにブラーフマンのみが無限なるもの(ブーマン)にふさわしいのだ。

となります。

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