「ヴァイシュヴァーナラがブラーフマンであるのは聖典にて同じ意味で理解され使用されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.24)
はじめに
今回表題となっている「ヴァイシュヴァーナラ」について調べると、アーユルヴェーダやヨーガにおいて体内の消化の火を「アグニ」と呼んでいて、その「アグニ」を神格化したものを「ヴァイシュヴァーナラ」として、体内に神様が宿っていて消化の火であると考えているようです。
以下の食べる前の祈りの言葉「フード・マントラ」として知られています。
意味は以下となります。
ブラフマンは献供である。ブラフマンは供物である。それはブラフマンである火の中に、ブラフマンにより燃べられる。ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに達することができる。
私は一切人火(ヴァイシュヴァーナラ)となって、生類の身体に宿り、プラーナ気とアパーナ気に結びつき、四種の食物を消化する。(上村勝彦訳)
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十四節
表題7 ヴァイシュヴァーナラ
24節 ヴァイシュヴァーナラ(宇宙の人)は至高の主です。なぜなら、(自己とヴァイシュヴァーナラ)という(二つの)言葉は多くのことを表しますが、それらは具体的に使用されているからです。
疑問:(チャーンドギャ・ウパニシャッドでは)その始まりはこうである。「私たちの自己とは何か?ブラーフマン(*17)とは何か?」(Ch.V.xi.1)および「現在、あなたはこの自己、ヴァイシュヴァーナラを覚えている。その実在(entity)(*18)を教えてください」(Ch.V.xi.6)そして、天、太陽、空気、空間、水、大地を別々に瞑想すると、明るい光の性質(多形、多様な道との同一性、広大さ、富、支え)を持つものとして(アスヴァパティが)避難した後、これらがヴァイシュヴァーナラの頭(目、生命、体の中央部分、膀胱、足)を構成すると(アスヴァパティが)教えを説いた後、テキストは次のように書かれている。「このヴァイシュヴァーナラの自己を瞑想する者は、プラデーサマトラ(空間的に限定されたもの、限定された場所で実現されたもの)であり、アブヒヴィマーナ(自分と同一化されたもの)として直接知り、あらゆる世界において、あらゆる存在を通して、あらゆる自己を通して食物を食べる。このヴァイシュヴァーナラの自己のうち、頭は天、目は太陽、生命力は空気、肉体の中央部は空間、膀胱は水、大地は両足、胸は犠牲の祭壇、心臓はガルハパティヤの火、心はアンヴァーハーリャパカナの火、口はアーハヴァニーヤの火である」(Ch.V.xⅷ.1-2)ここで、ヴァイシュヴァーナラという言葉が何を示しているのかという疑問が生じる。それは胃の中の熱なのか、火という要素なのか、それとも火と同一視する神なのか?肉体化した魂なのか?至高の主なのか?
(*17)Brahman:五人のブラーフマナ方であるプラシーナサーラ、サトヤヤジナー、インドラデュムナ、ジャナ、ブッディラデスッドがこの問題を自分たちの間で話し合いました。適切な答えが見つからなかったので、彼らはウッダーラカのところに行きましたが、彼もまた完全な答えを知りませんでした。
(*18)entity:六人のブラーフマナは、アスヴァパティ王のところに行き、彼にこう言いました。王の質問に答えて、ブラーフマナ方は以下に述べられているように、ヴァイスヴァーナラについての彼ら自身の概念を関連付けました。
ここで再び疑問が生じる原因は何か?
その原因は、胃の中の熱、火と呼ばれる要素、火の神を表す一般的な言葉であるヴァイシュヴァーナラという言葉が使われていること、また、肉体化された自己と至高の主の両方を否定する自己という言葉が使われていることにある。そこで、これらの意味のどれを受け入れ、どれを否定すべきかという疑問が生じる。結論はどうなるのだろうか?
反論相手:胃の中の火だ。
なぜですか?
というのも、この言葉は、「人間の中にあって、食物を消化するこの火は、ヴァイシュヴァーナラである」(Br.V.ix)など、この火を意味する言葉として特別に使われることがあるからである。あるいは、「全宇宙のために、神々はあのヴァイシュヴァーナラ(火、すなわち太陽)を創造した」(R.V.X.Ixxxviii.12)のように、一般的な意味でも使われる。あるいは、火を肉体とする神という意味かもしれない。「諸世界の王であるヴァイシュヴァーナラは幸福を定め、すべての栄光はヴァイシュヴァーナラのものであるから、私たちはヴァイシュヴァーナラの恩恵のうちにとどまることができる」(R.V.I.ic.1)というのも、このテキストやこの種の他のテキストによれば、この言葉は、栄光を持つ神などに当てはまるからである。しかし、ヴァイシュヴァーナラという言葉が自己という言葉と一致して解釈されるとすれば、冒頭で自己という言葉だけが使われているように、「われわれの自己とは何か、ブラーフマンとは何か」(Ch.V.xi.1)とあるように、ヴァイシュヴァーナラは経験者であるという理由でヴァイシュヴァーナラに近い存在であり、空間的な制限という属性がその場合に可能であり、それは条件づけられた要因によって制限されるからである。したがって、ヴァイシュヴァーナラは神ではない。
ヴェーダンティン:このような立場からこう言われているのです。ヴァイシュヴァーナラは正しくは神である。
なぜか?
なぜなら、この二つの言葉(ヴァイシュヴァーナラと自己)は多くのことを表しているにもかかわらず、この二つの言葉は特に(specifically)使われる。Sadharana-sabdavisesaとは、二つの共通語についての指定(specification)を意味する。自己、ヴァイシュヴァーナラという二つの言葉は、多くのものに共通する言葉ですが、ヴァイシュヴァーナラは三つのものを、自己は二つのものを意味しているにもかかわらず、ある指定がなされていることに注目される。というのも、その意味は至高の主であると理解されるからである。「このヴァイシュヴァーナラの自己の頭は天である」(Ch.V.xviii.2)ここでは、瞑想のために、天などを頭とする特別な有様(form)をとった至高の自己そのものが、内在する自己として示されていると理解される。そして、それは原因であるため、そうなる可能性がある。結果のすべての状態が原因に属するという事実から、至高の主はその手足として天などを持つことができるということになる。そして、「彼(ヴァイシュヴァーナラを知る者)は、すべての世界の中で、すべての世界の中で、すべての存在の中で、そしてすべての自己を通して食物を食べる」(Ch.V.xviii.1)というテキストにあるように、すべての世界に存続するという結果は、究極的な原因が意味するものであれば可能である。また、ヴァイシュヴァーナラを知る者のすべての罪が焼き払われることを語る「このようにして、彼のすべての罪は焼き尽くされる」(Ch.V.xxiv.3)というテキストに含まれるブラーフマンの指示や、「私たちの自己とは何か?ブラーフマンとは何か?」(Ch.V.xi.1)というテキストの自己とブラーフマンという言葉に含まれる冒頭の指示は、私たちを至高の主のみへの理解へと導く。それゆえ、至高の主のみがヴァイシュヴァーナラの意味である。
最後に
今回の第一篇第二章二十四節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の二十四節を要約すると
ヴァイシュヴァーナラ(火の人)とはブラーフマンである。なぜならば、ウパニシャッド聖典中では通常において、ヴァイシュヴァーナラと至高の主という二つの意味で理解され使用しているからだ。
この「ヴァイシュヴァーナラ」という言葉は、アーユルヴェーダにおいて、消化の火という意味で使われますが、ここでの意味は、プルシャという「神人」として、「きらきら輝いているものは、まさに頭」という『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』からきらきら輝いている頭であるから「ヴァイシュヴァーナラ」を原文では「宇宙の人」としているところを前節に引用された「彼の頭は天上にある火である」という『ムンダカ・ウパニシャッド』で述べられている「火の人」としています。
この「火の人」とは、たとえば、ある悟りによって光に包まれたとか、ある光が押し寄せてきて包まれたとか、輝く光が見えたということからすると、「火の人」という表現も可能であると言えます。
しかし、この光というのはエネルギーと言えるわけですので、観察したということは観察した対象があるとのこととなります。したがって、絶対的な根本原因には行き着いていない、つまり、悟りでもなんでもないことだと言えます。
ここでの「ヴァイシュヴァーナラ」とは、ブラーフマンだとしているので「火の人」そのものとしての絶対的な根本原因には行き着いたものであることから自己(つまりアートマン)だとウパニシャッド聖典中では理解され、かつ、使用されていると論理づけている。
この論理づけを垣間見るためには、先ほどに述べたように、真の悟りではないが、「ある悟りによって光に包まれたとか、ある光が押し寄せてきて包まれたとか、輝く光が見えた」というような体験がこの論理を裏付けることとなります。