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「ヴァイシュヴァーナラは火の神でも火の元素でもない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.27)


はじめに

インド神話において、「ヴァイシュヴァーナラ」とは、クヴェーラの別名となる「ヴァイシュラヴァスの子」の意味で、仏教では毘沙門天あるいは多聞天といわれるようです。

画像は、日本三大毘沙門天の一つといわれている大岩山毘沙門天の毘沙門天蔵となります。この仏像からすると火の神のようですが今節では否定しています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十七節

27節 まさにこれらの理由から、(ヴァイシュヴァーナラは)神でも元素でもない。

そして、マントラのテキストに天とその他のものに関連して火という元素が提示されていることから、「頭そのものが火である」(Ch.V.xviii.1)などに含まれる手足の概念は、まさにその元素である火についてなされなければならない、あるいは、手足の概念は、火をその体とする神についてなされなければならないのは、神は神性を帯びているのだから、と主張した。それは否定されなければならない。だから、ここではこう言っている。まさにこれらの理由から、(火の)神はヴァイシュヴァーナラではない。火の元素もまたそうではない。というのも、単なる熱と光の性質を持つ火という元素が、その頭として天を持つなどと空想することはできないからですし、それ自体が生産物であるものは、他の生産物の自己であることはあり得ないからである。だから神もまた、神性を持っているとはいえ、天などを頭などに持っていると空想することはできない。なぜなら、神はそれらの源ではなく、その神性は至高の主に依存しているからである。その上、すべての選択肢において、自己という言葉が適用できないことは確かである。

最後に

今回の第一篇第二章二十七節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』(Ch.V.xviii.1)に「頭そのものが火である」という文が記載されていませんでしたので、引用元が不明でした。

今回の二十七節を要約すると

同じ理由からも、ヴァイシュヴァーナラは火の神(デーヴァータ)でも火の元素(ブータ)でもない。

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