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「至福なるもの(アーナンダマヤ)がブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.12)


はじめに

今回は、人間五蔵説の「アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)」と呼ばれる一番精妙なボディの「アーナンダマヤ」が出てきます。今回の翻訳では「至福なるもの」と訳しましたが「歓喜なるもの」でも同じ意味としてお考えください。

『ブラフマ・スートラ』をまだ最後まで読み切っておらず、読みながらの翻訳となりますので後でどんな解説が出てくるのかわからないこともあり、特に触れることなく進めてまいります。

表題6 至福なるもの

反論:「この誕生などが由来するもの」(I. i. 2)で始まり、「ウパニシャッドに明らかにされているから」(I. i. 11)で終わる格言によって言及されるウパニシャッドのテキストが、全智全能の神が宇宙の起源、継続、消滅の原因であることを証明することを目的としていることが、論理学の助けを借りて立証された。そして、すべてのウパニシャッドから同じ種類の知識が集められると主張することによって、すべてのウパニシャッドが原因として意識のある実在について語っていると説明されている。それでは、この本の残りの部分を読み進めるという考えは何なのでしょうか?

(ヴェーダンティンの)答え:ブラーフマンは二つの側面で知られている。一つは、名前と形の変化である宇宙の多様性によって構成される限定的な付属物を所有する側面であり、もう一つは、すべての条件付けの要因を欠いており、前者とは反対の側面である。次のような多くのテキストがあり、知識と無智の主題を分けることにより、千通りの方法でブラーフマンのこれらの二つの側面を示しています。「なぜなら、二元性があるとき、いわば、人は何かを見るので.... しかし、ブラーフマンを知る者にとって、すべてが自己となったとき、人は何を見て、何を通して見るべきか?」(Br.IV.v.15)、「それが無限(絶対者ブラーフマン)であり、そこでは(照らされたillumined/啓示された)人は他の何も見ず、他の何も聞かず、他の何も知らず、一方、それが有限(相対的なブラーフマン)であり、そこでは人は他の何かを見て、他の何かを聞き、他の何かを知っている。無限であるものはまさに不滅であり、有限であるものは死すべきものである」(Ch. VII. xxiv. 1)、「至高の自己は、すべての形を創造し、それらに名前を与えた後、(個々の魂としてそれらの中に入り込み、)それらの名前を発し続ける」(Tai. A. III. xii. 7)、「それは部分、行為、変化、欠陥、および美徳と悪徳がなく、不滅につながる至高の橋であり、燃料を使い果たした火のようである」(Sv. VI. 19)、
「これではない、これではない」(Br. II. iii. 6)、「それは粗大でも微細でもなく、短くも長くもない」(Br. III. viii. 8)、「絶対者と異なるものは有限であり、相対的な(Qualified/限定的な)ものと異なるものは絶対的なものである」そうであるならば、無智の状態においてこそ、ブラーフマンは経験的な取引の範囲に入ることができ、(崇拝的または観念的な)瞑想の対象や瞑想者などを含む。そのような瞑想のうち、あるものはより高い境地への到達に、またあるものは段階的な解脱に、またあるものは行為のより大きな効力に貢献するものである。

(*106)actions:例えば、象徴の崇拝、ハートに閉じ込められたブラーフマンの瞑想、ウドギータの瞑想などである。

これらは、関係する(*107)資質や条件付けの要因によって異なる。

(*107)involved: 資質―例えば、ハートの中に実在するブラーフマンへの真の決意を持っていることやその他の条件因子など。

唯一の神、至高の自己を瞑想することは、そのような資質を持つものとして瞑想されるべきであるが、それでも、ヴェーダのテキストに述べられているように、瞑想された者の資質に応じて結果は異なる。「人は自分が瞑想したとおりの者になる」、「この世を去った後、人は自分がなりたいと望んだもの(つまり、瞑想したとおり)になる」(Ch. III. xiv. 1)このことは、「最後に肉体を離れる際に、どのような対象であれ、その思い出すものに到達するのだ、クンティの息子よ」(Gita, VIII. 6)という『スムルティ』も裏付けている。

動いているもの、止まっているもの、すべての存在の中に隠れたままの同じ自己であるにもかかわらず、「より顕著な形で顕現している自己を瞑想する者は、それに到達する」(Ai. A. II. iii. 2.1)というテキストでは、不変で常に同質である自己について、その栄光と力の顕現の程度には差があり、それは自己が条件付けられる心の段階によって引き起こされるということを耳にする。『スムルティ』にも「偉大で、繁栄し、力強い存在が何であれ、汝はその輝きの一部の産物であることを知れ」(Gita, X. 41)というテキストがあり、偉大さなどが過剰に存在するところでは、それを神として崇拝するべきだと命じられている。ここでも同様に、太陽の球体に宿る光り輝く遍在的存在が、至高の自己であるに違いないと述べられている、というのも、彼によってすべての罪が超越されているという言及が、そのことを示唆しているからである。(B. S. I. i. 20)

「アーカーシャ(空間)という言葉はブラーフマンの意味で使われており、ブラーフマンの指示記号が証拠となっているからである」(Ⅰ.Ⅰ.22)などという格言にも、このような解釈が顕著に見られる。このように、自己の知識は即座に解脱をもたらすが、その教えは、何らかの条件付けの要素との関係の助けを借りて伝授されるという事実もある。したがって、条件づけ要因との関係は、教えようとする思想ではないが、それでも、優れたブラーフマンと劣ったブラーフマンへの言及から、その知識はこの二つのどちらかを指しているのではないかという疑念が生じるかもしれないが、これは、文章の傾向を考慮して判断しなければならない。

この格言自体、「至福なるもの(すなわち至福に満ち溢れたもの)はブラーフマンである。なぜなら、(至福の)繰り返しがあるからである」は、実例として引用されるかも知れない。本書の残りの部分は、ブラーフマンは一つであるにもかかわらず、ウパニシャッドでは、限定的な付属物との関係の助けを借りて、または借りることなく、瞑想されたり、(それぞれ)知られたりするものとして語られていることを示すために進められます。さらに、「(さまざまなウパニシャッドから集められた)知識は同じだから」(I. i. 10)という格言によってなされた、他の感覚のないものが(宇宙の)原因であるとするものに対しての反論は、残りのテキストで詳しく説明されており、他の文章をブラーフマンについて述べていると説明しながら、ブラーフマンに対立する他の原因を反論している。

疑問:食べ物でできた自我たち(the selves)(Tai. 11. i. 2)、生命力からなる自我たち(Tai. II. ii. 2)、心からなる自我たち(Tai. II. 6ii. 2)、知性からなる自我たち(Tai. II. iv. 1)を次々に提示した後、「知性からなるこの自己に比べ、至福に満ちたもう一つの内なる自己がある」(Tai. II. v. 2)と述べられている。ここで疑問が生じる。「ブラーフマンは真理であり、知識であり、無限である」(Tai. II. i)で示された至高のブラーフマンが、ここでは「至福なるもの」(アーナンダマヤ)という言葉で語られているのか?、それともそれはブラーフマン以外の食べ物などによって構成される自我(the selfs)のような存在なのか?ここでの結論はどうあるべきか?

議論相手(つまりヴルッティカーラ):至福なるものは、ブラーフマン以外の第二の自己でなければなりません。

なぜか?

なぜなら、彼は食べ物などによって構成される一連の第二の自己に含まれているからです。

反論 : たとえそうであっても、至福なるものはすべてのものの最奥なる存在であるから、第一の自己でなければなりません。

議論相手 :それはあり得ません。なぜなら、彼は喜びなどの手足を持っておられるし、ウパニシャッドでは彼の肉体化について言及しているからです。もし至福なる自己が第一の自己であるならば、幸福などの(手足)を持つことはできない。しかし、この文脈でウパニシャッドは、「喜びはまさに彼の頭である」(Tai.II. v)などと述べている。具現化については、次のようにも述べられている。「その先行する(知性的な)自己のうち、この者(すなわち至福なる者)は肉体化された自己である」(Tai. II. iii) この意味は「先行するもの」すなわち知性ある自己のうち、「この方は肉体化された自己」であり、「この方」とは至福に満ちた方である。そして、肉体がある限り、喜びと悲しみに触れることを否定することはできない。したがって、「至福に満ちた/full of Bliss(あるいは至福に満ちた/Blissful)」という言葉は、輪廻する魂を意味する。

ヴェーダンティン:このような立場ですから、次のように言われているのです。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十二節

12節 繰り返し述べられているゆえに、至福なるものは至高の自己である。/(ウパニシャッド聖典風に)繰り返し述べられている故に、歓喜なるもの(アーナンダマヤ)とは絶対者ブラーフマンである。

至高の自己だけが「至福なるもの」(Blissful ful One)になれる。

なぜか?

繰り返されるのですが、「至福」という言葉が何度も繰り返されているのは、至高の自己だけについて言及しているからです。至福なるものを紹介し、「彼は至福であることは確かである」(Tai. II.vii.1)というテキストの中で至福に満ちたものについて述べた後、「人は(すなわち個人は)至福に接することによって幸福になるのである。

もしこの至福が至高の空間(ハートの中)になかったら、いったい誰が息を吸ったり吐いたりするだろうか?この方は実に人々を喜ばせるからである」(Tai. II. vii)、「これは至福の評価である」(Tai. II. viii. 1)、「彼は至福に満ちたこの自己に到達する」(Tai.II.viii. 5)、「悟りを開いた人は、ブラーフマンの至福を悟った後は何事も恐れない」(Tai.II. ix. 1)、および「彼は至福をブラフマンとして知っていた」(Tai.III. vi)と述べられている。別のウパニシャッドでも、「知識、至福、ブラーフマン」(Br.III. ix. 28.7)という文の中で、至福という言葉がブラーフマンそのものに対して使われているのがわかる。このように、ブラーフマンに対して至福という言葉が繰り返し使われていることから、至福なる(Anandarnaya)自己がブラーフマンであることが理解される。

至福なるものは、食べ物によって構成される二次的自己から数えて、二次的自己の連鎖の中に存在するため、二次的自己でもあるという批判については、至福なるものはすべてのものの最奥の存在であるため、何の問題も生じない。この聖典は、第一の自己について教えたいがために、一般の人々の理解に従っている。こうして(最初に)、食べ物によって構成され、極めて鈍い人々に自己として知られている肉体を自己として採用する。そして、聖典は、溶けた銅などを鋳型に流し込んで形成される像のように、本当は非自我(non-Selves)である連続するものを、先のものの自我(the selfs)として把握させる。

理解しやすいようにこのようなプロセスを踏むことで、聖典は、本当の意味での自己である至福なるものについて教えている。これはより論理的な解釈である。アルンダティと呼ばれる星を示す場合(B. S. I. i. 8)のように、アルンダティとされる多くの星が示された後、本当のアルンダティはたまたま最後に言及されたものであり、ここでも同様に、至福なるものは第一の自己でなければならず、すべての中で最奥なる存在であるに違いない。

そして、第一の自己に対して、喜びなどをその頭などと空想するのは非論理的であるという反論が提起された。しかし、そのような空想的な手足の帰属が起こるのは、至福なる自己の性質のためではなく、直前に制限的な付属要素(知性)が存在するためである。したがって、この反論は根拠がない。至福なるものの具現性もまた、食べ物の自己とそれ以外のものの連続的な具現性という文脈の中で語られているのであり、それゆえ、個々の魂とは異なり、至福なる自己には実質的な具現性はない。したがって、至福なるものは至高の自己である。

最後に

なぜなら、二元性があるとき、いわば、人は何かを見るので.... しかし、ブラーフマンを知る者にとって、すべてが自己となったとき、人は何を見て、何を通して見るべきか?

Br.IV.v.15本文引用

上記の本文引用は、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』のヤージナヴァルキァ師が議論をするもう一人の妻との対話の最後に当たります。混乱した妻のマイトレイーが「私は真我がいよいよ持って分からなくなりました」との言葉を受けてのヤージナヴァルキァ師の言葉の引用の一部ですが、全文は以下に引用致します。

15節 「なぜならば、二元性のあるところでは一方は他方を見、嗅ぎ、味わい、話しかけ、聞き、考え、触れ、認識する。しかし、一切が自分の真我になりきったところでは、人は何によって何を見るべきだろうか?何によって何を嗅ぎ、何によって何を考え、何によって何を触れ、何によって何を認識するのだろうか?

一切のものを知る存在を、人は何によって認識できるのだろうか?

それは「それではない、それではない」と真我によって認識されるのである。真我は捉えられない故に、不可促なのである。真我は破壊され得ないものである故に、不壊なのである。真我は自身に執着しないもの故に、無執着なのである。苦痛を感じず、傷つき悩みもしないのである。

人は何によってこの知る者を知ることができるだろうか?お前は以上の教えを受けたのである。マイトレイーよ、以上がまさに、永劫不死なるものなのだ」

このように説いた後にヤージナヴァルキァ師は立ち去ったのである。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第四編第五章十五節

このヤージナヴァルキァ師の説く話しを聴聞した私たちは、問われたことに対して熟考を重ねることができます。

(*106)actions:例えば、象徴の崇拝、ハートに閉じ込められたブラーフマンの瞑想、ウドギータの瞑想などである。

本文脚注より引用

ここでの「ウドギータの瞑想」については、以下の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』をご参照ください。

三節 この神賛歌(ウドギータ)と呼ばれる阿吽なる音は精髄中の精髄であり、最高の存在であり、至上のものであり、前八種の内の八番目のものである。
八節 まさにこの阿吽なる音は同意の際の言葉(オウ)である。それというのも人が何かに同意する際に発するのは、単純に「阿吽・オウ」という言葉だからである。そして同意された事柄は即ち、成就されたことになるのである。斯くのごとくにこの事柄を理解している者が、この阿吽なる音は神様を讃咏する音(ウドギータ)であるとして瞑想を施せば、その者はまさしく種々の成就者となるのである。

『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』第一篇第一章

最後に肉体を離れる際に、どのような対象であれ、その思い出すものに到達するのだ、クンティの息子よ(Gita, VIII. 6)

本文引用

上記の『バガヴァッド・ギーター』にて「臨終の際にいかなる事物を念じつつ肉体を去る者も、その事物とのみ合一する境地に達するのだ」とあるが、これは、クリシュナ神が親戚との戦争直前にビビッてしまったアルジュナ将軍に対してヴェーダーンタの教えを説いている以下のものに続く節となっています。

5節 臨終の際に我を念じつつ肉体を去る者には、疑いなく我の境地に達するのだ。

『バガヴァッド・ギーター』第八章

覚醒時に誰かともめたとすると、そのときの強い想念が夜寝ている睡眠時の夢に続いていて、夢の中でもそのもめた人物が出てきたりするのと同じように、人生の主なる部分との繋がりが深い想念というのは、臨終の際に更に強くなりその想いは次の幻想夢の種子となることを伝えている。

だからこそ、臨終の際においても自己(真我)の内にとどまっているように制御することをここでは説いています。簡単に言うならば、この際の想念がどのようなものであり残存印象(サムスカーラ)となり行為(カルマ)を生み出すと言うことです。

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