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「個我と安住の地であるブラーフマンとの相違は聖典に記されているから両者は異なる」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.5)


はじめに

くどい理論かもしれませんが、繰り返しつまり反復は「教育」の基本であるのは、「認識可能な対象」と「認識者」との違いを「観られるもの」と「観るもの」との違いを言葉を変えて繰り返しています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章五節

5節 (そして)違いについての言及があるからだ。

さらに、「唯一無二の自己のみを知れ」(Mu.II.ii.5)というテキストには、認識可能な対象と認識者との違いについての言及がある。そのテキストでは、認識者は自由を切望しているため、生き物です。そして残余の方法によって、自己という言葉によって言及されるブラーフマンは、認識されるべき対象であり、天や地などの安住の地であるが、生きている生物はそうではない。

生きている存在を天、地などの住まいと認めない理由が他に何があるのか?

最後に

今回の第一篇第三章五節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』そして、初代ではないシャンカラ師の註解を以下にてご参考ください。

その中に天と地、そして気界とが、全ての生気を伴った意思と共に織り込まれているもの。それだけが唯一の真我(アートマン)だと悟れ。これ以外の言葉を捨て去れ。この真我こそ不死の境地との間にかかる橋である。

(Mu.II.ii.5)

5.天、地、antariksha(空)、プラーナを伴う心が中心にあるもの。彼こそがすべての中の唯一のアートマンであると知りなさい。他のすべての言葉を捨てなさい。これが不死への道です。

「不滅」は心では容易に把握できないので、反復することでそれをより容易に認識できるようにするためである。彼、不滅のブラーフマン、その中心にDyouh、大地、antariksha、そして心とその他の道具もまた同様である。弟子たちよ、彼を「唯一なるもの」、すべてのものの支え、アートマン、すなわち、あなた方自身とすべての生き物の内なる原理として知りなさい。それを知った上で、「Apara vidya」の性質を持つ他のすべての言葉、およびそれによって解明されるすべてのカルマを捨てなさい。なぜなら、これ、すなわちアートマンの智識は解脱への道であり、いわば輪廻の大海を渡る橋だからです。別のシュルティは「このようにアートマンを知ることで、人は死を超えて旅をします。解脱への道は他にはありません」と言っている。

(Mu.II.ii.5)Shankara’s Commentary

今回の五節を要約すると

繰り返しになるが、個我と天上界や地上界の安住の地であるブラーフマンとの相違として聖典に記されていることからも両者は異なるのだ。


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