「不滅なるもの(アクシャラ)はブラーフマンであるのは虚空(アーカーシャ)までのすべてのものを支えるからだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.10)
はじめに
瞑想の前に必ず「Om(オーム)」もしくは「Aum(アーウーン)」と三回唱えますが、なぜ唱えるのかについて耳にタコができるほど教わってきているのですが、今回の節であらためてその意味を確認することができました。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章十節
表題3 不滅なるもの
10節 アクシャラは、宇宙に至るまで(そして宇宙も含めて)万物を支えているからこそ、ブラーフマンなのだ。
疑問:ウパニシャッドには、「(ガールギーは尋ねた)“空間(アーカーシャ=虚空)は何によって織り込まれ、固定されているのですか?”(Br.III.viii.7)(ヤジュナヴァルキヤは答えた)“ガールギーーよ、ブラフマンを知る者たちは言う、このアクシャラ(不変のブラーフマン)はそれである。それは粗雑なものでも微細なものでもない”」(Br.III.viii.8)これに関して疑問が生じる。アクシャラという言葉が意味するのは文字(オームOm)なのか、それとも至高の主そのものを意味しているものなのか?
反論相手:それに関しては、「文字の列挙」(パニーニの14の格言の一群)のような箇所では、アクシャラという言葉は文字の意味で使われており、一般的な使用法を無視するのは妥当ではない。別のウパニシャッドにも、「オームは確かにこのすべてである」(Ch.II.xxiii.4)と述べられており、瞑想のために、オームという文字がすべてと同一であると宣言されている。それゆえ、アクシャラという言葉は文字を示すのに使われる。
ヴェーダンティン:このような立場から、私たちは、至高の自己がアクシャラという言葉によって意味されていると言っているのです。
なぜか?
「宇宙を含むすべてのものを支えるため」、つまり、地球から宇宙に至るまで、すべての被造物を支えているからである。というのも、まず、「それは、未顕現の空間(アーカーシャ=虚空)に織り込まれ、固定されたままである」(Br.III.vii.7)というテキストで、地球から数えて時間の三分割の中にあるすべての被造物は空間に支えられていると述べられているからである。そして、このアクシャラの話題は「空間(アーカーシャ=虚空)は何によって織り込まれ固定されているのか?」(同上)という質問を通して議論されています。結論もまた同様の方法で出されている。「ガールギーよ、このアクシャラの上に、(未顕現の)空間(アーカーシャ=虚空)が織り込まれ固定されている」(Br.III.viii.11)空間(アーカーシャ=虚空)を含むすべてのものをこのように支えることは、ブラーフマン以外にはありえない。「オームは確かにこのすべてである」(Ch.II.xxiii.4)という引用については、オームがブラーフマンを実現するための手段であるため、賛美の意味で理解されなければならない。したがって、アクシャラは、その派生的な意味において、朽ちることなく、すべてに浸透し、それによって永遠性と遍在性の概念を伝える至高のブラフマンであるに違いない。
反論相手:もし、空間(アーカーシャ=虚空)を含む万物を支えるという事実が、結果が原因に依存する(つまり包含する)ことを意味するのであれば、プラダーナを原因として支持する人々(サーンキヤ)の場合にも、このことは等しく成り立つと主張することができるかもしれない。では、空間(アーカーシャ=虚空)によって終わる万物を支えているという事実から、どうしてアクシャラがブラーフマンであるとわかるのでしょうか?
ヴェーダンティン:したがって、答えは次のようになる。
最後に
今回の第一篇第三章十節にて引用されている『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』と『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十節を要約すると
不滅なるもの(アクシャラ)がブラーフマンであるのは、虚空(アーカーシャ)までのすべてのものを支えているからだ。
その理由について、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』のヤージナヴァルキァ師とヴァチャヌク師の娘ガールギー師との対話を引用し、オームつまりアーウーンという音を唱える時、虚空(アーカーシャ)のすべてを支えている不滅なるもの(アクシャラ)であるブラーフマンへ、その音を虚空(アーカーシャ)に響かせると共に想い(想念)を紙一重よりも薄いとこで馳せることができるのだからと。
ブラーフマンを表すアーウーンの意味と響きによって虚空(アーカーシャ)すべてを支えていることを豊かな感性によって想いを馳せるということを、ここでは理論ではなく感性によって考えられているわけです。
古代のインドの人たちは、アーウーンという音によって、最大限に具体化できる神様そのものであるとして唱えることでより豊かな感性に磨きをかけていったのかもしれません。
そして、「どうしてアクシャラがブラーフマンであるとわかるのでしょうか?」については次節にということのようです。