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「ジャイミニ師はヴェーダ聖典やウパニシャッド聖典に対して神々は学習できないと主張するのだが...」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.31)
はじめに
今節に登場するジャイミニ師とは、古代インドの哲学者となり、インド六派哲学の一つであるヴェーダ聖典の祭事部に関する体系的な解釈学を旨とするミーマーンサー学派の開祖にして,その根本経典『ミーマーンサー・スートラ』の著者とされています。
しかし、ヴェーダーンタ学派の根本経典である『ブラフマ・スートラ』の中で、作者とされるバーダラーヤナからジャイミニの名のもとに文中にて紹介されるが批判されています。
そして、マドゥ・ヴィッディヤーとは、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』 II.v.1-19(最後に引用しています) と『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』 III 1-5 に記述されています。マドゥ・ヴィッディヤーまたは「蜂蜜の知識」は、自己の至福の知識であり、重要なヴェーダの教えです。しかし、このことは、信頼できない異端の情報源ともだが参考まで。また、この知識は、師から弟子へ、父親から息子へ、つまり価値があり内面的に準備ができている息子へ伝えられるべきものとされています。インドラ神はマドゥ・ヴィッディヤーをリシ・ダディチに教え、他の誰にも伝えてはならないと警告したとのことです。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章三十一節
31節 ジャイミニは、マドゥ・ヴィッディヤなどに対する能力が不可能であるために、神々やその他の存在には(ブーラフマンに関する知識に対する)能力がないと主張している。
ここでは、神々でさえブラーフマンの智識を得る能力があるという主張に異議が唱えられています。ジャイミニ師は、神々は不適格であるとしている。
なぜか?
なぜなら、神々がマドゥ・ヴィッディヤー(蜂蜜の瞑想、つまり物事の連続する真髄についての瞑想)などに適任であることは不可能だからである。もしブラーフマンの智識を得る能力があることを認めるのであれば、マドゥ・ヴィッディヤーなどについても同様に認めるべきです。なぜなら、神々もまた同様にヴィッディヤー(智識)の形態だからである。しかし、これは不可能である。
どうしてですか?
「この太陽は神々にとってマドゥ(蜂蜜)である」(Ch.III.i.1)というテキストによれば、人間は蜂蜜の考え(the idea)を重ね合わせて太陽を瞑想すべきである。もし神々やその他の存在を(有能な)崇拝者として受け入れられるならば、太陽(神)は他のどの太陽を崇拝するのだろうか?そしてまた、太陽に存在する五種類の蜜(甘露)、赤とその他の蜜(甘露)を紹介した後、ヴァス神、ルドラ神、アディティヤ神、マルト神、サディヤ神の五つのグループの神々が、これらの蜜(甘露)を順番に食べて生きていると言われている。この教えの後、「このようにこの蜜(甘露)を瞑想する者は、ヴァス神そのものと一体となり、火に導かれてこの蜜(甘露)を見て満足する」(Ch.III.vi.3)で始まるテキストで、ヴァス神やその他の存在が食べている蜂蜜を知る者は、ヴァス神やその他の存在に属する栄光を達成することが示されている。しかし、ヴァス神やその他の存在は、蜜(甘露)の享受者として、他に誰を知ることができようか?また、ヴァス神やその他の存在に属する他のどんな栄光を、彼らは得たいと願うのだろうか?他の箇所でも同様であり、例えば、「火は四分の一、空気(風)は四分の一、太陽は四分の一、方角は四分の一」(Ch.Ill.xviii.2)、「空気(風)は実に融合の場である」(Ch.IV.iii.1)、「太陽はブラーフマンである。これが教えである」(Ch.III.xix.1)のように、神々そのものへの瞑想が命じられているが、それらの神々はまさにそれらの瞑想を引き受ける資格がない。さらにまた、「これら二つの(耳)はゴータマとバラドヴァージャである。このものはゴータマであり、このものはバラドヴァージャである」(Br.II.ii.4)というようなテキストでも、予言者についての瞑想が命じられているが、そこでは、まさにそれらの予言者たちは、まさにそのような瞑想を行う資格がないのである。
神々が不適格とされる理由が他にあるだろうか?
最後に
今回の第一篇第三章三十一節にて引用されている『チャーンドギャ・シュヴァタラ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
かの太陽は神の蜜である。天は[蜂蜜が懸けられる]その横木である。空界はその蜂巣であり、光線は蜂の子である。
この甘露をこのように知る者は、ヴァス群神の一となり、頭領のアグニ神とともに、かの甘露を見るだけで満腹する。彼はかの姿に入り、その姿から抜け出る。
かのブラフマンは四足である。言葉は[その]一足である。生気は[その]一足である。眼は[その]一足である。耳は[その]一足である。以上は、個体に関することである。次は神に関して[述べられねばならぬ]。アグニ(火神)は[その]一足である。ヴァーユ(風神)は[その]一足である。アーディトヤ(太陽神)は[その]一足である。諸方角はは[その]一足である。といえば、個体に関しても神に関しても、両者が説かれたことになる。
ライクヴァ「風は実になんでもとりこむ者である。火が消えるとき、それはまさしく風に入る。太陽が西に没するとき、それはまさしく風に入る。月が没するとき、それはまさしく風に入る。」
「太陽はブラフマンである」と教示せられる。その補足的解説は[次の通りである]。「太初において、この無こそ存在した。それは常に存在した。それは展開した。かの卵が生じた。それは一年の間横たわっていた。その卵は[二つに]割れた。卵殻の一つは銀色になり、他の一つは金色になった。」
これら二つ(耳)はゴータマとバラドヴァジャです。こちらはゴータマ、こちらはバラドヴァジャです。これら二つ(目)はヴィシュヴァミトラとジャマダグニです。こちらはヴィシュヴァミトラ、こちらはジャマダグニです。これら二つ(鼻孔)はヴァシシュタとカシヤパです。こちらはヴァシシュタ、こちらはカシヤパです。舌はアトリです。舌を通して食物が食べられるからです。「アトリ」とは「アティ」という名前にほかなりません。それをそのように知る者はすべてのものを食べる者となり、すべてのものが彼の食物となります。
以下に『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』の「マドゥ・ヴィッディヤー」についての記述をご参照ください。(AI翻訳で手直ししていませんが意味は通ると思います)
1.この地球はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの地球にとって蜂蜜のようなものである。この地球にいる輝く不滅の存在と、肉体にいる輝く不滅の物質的存在についても同様である。(これら4つは)この自己にほかならない。この(自己認識)が不滅の手段であり、この(根底にある統一性)がブラフマンであり、この(ブラフマンの知識)が万物となる手段である。
2.この水はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの水にとって蜂蜜のようなものです。この水の中にいる輝く不滅の存在と、体内の種子と同一視される輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己に過ぎません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)です。
3.この火はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの火にとって蜂蜜のようなものです。この火の中にいる輝く不滅の存在と、身体の発声器官と同一視される輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己にほかなりません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(となる手段)です。
4.この空気はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの空気にとって蜂蜜のようなものです。この空気の中にいる輝く不滅の存在と、体の中の生命力である輝く不滅の存在も同様です。これらはまさにこの自己です。この(自己認識)は不滅の手段であり、この(根底にある統一性)はブラフマンであり、この(ブラフマンの知識)は万物となる手段です。
5.この太陽はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの太陽にとって蜂蜜のようなものである。この太陽の中にいる輝く不滅の存在と、身体の目と同一視される輝く不滅の存在も同様である。(これら4つは)この自己にほかならない。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(となる手段)である。
6.これらの四方はすべての存在にとって蜂蜜のようなものであり、すべての存在はこれらの四方にとって蜂蜜のようなものである。これらの四方である輝く不滅の存在と、身体における耳と聴覚の時間と同一視される輝く不滅の存在も同様である。(これら四つは)まさにこの自己である。この(自己認識)は不滅の手段であり、この(根底にある統一性)はブラフマンであり、この(ブラフマンの認識)は万物となる手段である。
7.この月はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの月にとって蜂蜜のようなものです。この月にいる輝く不滅の存在と、身体の中の心と同一視される輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己に過ぎません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)です。
8.この稲妻はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの稲妻にとって蜂蜜のようなものです。この稲妻の中にいる輝く不滅の存在と、身体の中で光と同一視されている輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己に過ぎません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)です。
9.この雲はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの雲にとって蜂蜜のようなものです。この雲の中にいる輝く不滅の存在と、身体の中の音や声と同一視されている輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己に過ぎません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)です。
10.このエーテルはすべての生き物にとって蜂蜜のようなもので、すべての生き物はこのエーテルにとって蜂蜜のようなものです。このエーテルの中にいる輝く不滅の存在と、心臓や身体の中のエーテルと同一視されている輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)まさにこの自己です。この(自己認識)が不滅の手段であり、この(根底にある統一性)がブラフマンであり、この(ブラフマンの知識)が万物となる手段です。
11.この正義(ダルマ)は、すべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの正義にとって蜂蜜のようなものです。この正義の中にいる輝く不滅の存在と、肉体において正義と同一視されている輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)この自己に過ぎません。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)です。
12.この真理は、すべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの真理にとって蜂蜜のようなものです。この真理の中にいる輝く不滅の存在と、肉体において真理と同一視されている輝く不滅の存在も同様です。(これら4つは)まさにこの自己です。これ(自己認識)は不滅(の手段)であり、これ(根底にある統一性)はブラフマンであり、これ(ブラフマンの知識)は万物(となる手段)です。
13.この人間という種族は、すべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの人間という種族にとって蜂蜜のようなものである。この人間という種の中にある輝く不滅の存在、そして肉体において人間という種族と同一視される輝く不滅の存在も同様である。(これら4つは)この自己にほかならない。(この自己認識は)不滅の手段であり、この(根底にある統一性は)ブラフマンであり、この(ブラフマンの認識は)すべてとなる手段である。
14.この(宇宙の)体はすべての生き物にとって蜂蜜のようなものであり、すべての生き物はこの(宇宙の)体にとって蜂蜜のようなものである。この(宇宙の)体にある輝く不滅の存在と、この(個々の)自己である輝く不滅の存在も同様である。(これら4つは)この自己にほかならない。この(自己認識)は不滅(の手段)であり、この(根底にある統一性)はブラフマンであり、この(ブラフマンの知識)は万物(になる手段)である。
15.すでに述べたように、この自己はすべての存在の支配者であり、すべての存在の王です。すべてのスポークが戦車の身廊と車輪に固定されているように、すべての存在、すべての神、すべての世界、すべての器官、そしてこれらすべての(個々の)自己は、この自己に固定されています。
16.これは、アタルヴァ・ヴェーダに精通したダディヤクがアスヴィン人に教えた、相互に助け合う瞑想です。これを悟ったリシ(マントラ)は言いました。「人間の姿をしたアスヴィン人よ、貪欲からあなたがたが行ったダルシャと呼ばれる恐ろしい行為を、雲が雨を降らせるように暴露しよう。アタルヴァ・ヴェーダに精通したダディヤクが馬の頭を通してあなたがたに教えた、相互に助け合う瞑想を(あなたがたがどのように学んだかを)私は明かそう。」
17.これは、アタルヴァ・ヴェーダに精通したダディヤクがアスヴィン人に教えた、相互に助け合うものについての瞑想です。これを悟ったリシは言いました。「アスヴィン人よ、あなた方はアタルヴァ・ヴェーダに精通したダディヤクの肩に馬の頭を乗せた。ああ、恐ろしい者たちよ、彼は約束を守るために、あなた方に太陽に関連する相互に助け合うものについての(儀式的な)瞑想と、それらについての秘密の(精神的な)瞑想を教えたのだ。」
18.これは、アタルヴァ・ヴェーダに精通していたダディヤクがアスヴィンに教えた、相互に助け合うものについての瞑想です。これを悟ったリシは言いました。「彼は二本足の体と四本足の体を作った。その至高の存在は、最初鳥(微細な体)として体に入った。」彼はすべての体に宿るため、プルシャと呼ばれています。彼に覆われていないものはなく、彼に浸透されていないものは何もありません。
19.これは、アタルヴァ・ヴェーダに精通していたダディヤクがアスヴィン派に教えた、相互に助け合うものについての瞑想である。これを悟ったリシは言った、「(主は)それぞれの姿に応じて自らを変容させた。主の姿は、主を知らせるためであった。主はマーヤー(無知によって重ねられた観念)のために、多様なものとして知覚される。なぜなら、主には10の器官、いや、何百もの器官が繋がれているからである。主は器官である。主は10であり、何千であり、多く、無限である。そのブラフマンには先も後もなく、内も外もない。この自己、すべてのものの知覚者がブラフマンである。これが教えである」
今回の三十一節を要約すると
たとえば、太陽神といった神々が恵みを与える自己の本質を礼拝して瞑想できないということから、ヴェーダ聖典やウパニシャッド聖典に対して神々は学習することができないとジャイミニ師は主張している。