見出し画像

「ヴェーダやスムリティによれば、宇宙が輪廻しても事物の名と形が変わらぬ故にヴェーダ聖典は永遠で普遍なのだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.30)


はじめに

今節ではユガ(Yuga)のことについて述べられているので、ごく簡単に触れますと、ユガとは、インド哲学において、循環する4つの時期からなる「時代」の名前だと言われています。

その4つの時期はサティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、そして最後にカリ・ユガで、これらの4ユガを合わせたものが大ユガ(432万年)となります。

千の大ユガをカルパ(劫)と呼ばれていて、梵天(ブラフマー)の昼(夜)にあたるようです。この宇宙観によれば、宇宙の生命は41億年から82億年のサイクルで創造、破壊されると考えられています。

ブラフマー自身の寿命は、311兆400億年で、このサイクルは季節のように繰り返すと言われています。また、春夏秋冬のように、それぞれのユガは段階を持ち、徐々に移り変わって行くようです。黄金時代から暗黒時代へのサイクルは、太陽系が別の恒星の回りを公転しているためだと言われています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章三十節

30節 そして、ヴェーダやスムリティから知られているように、世界周期の輪転(revolution)においてさえも、似たような名前と形が繰り返されるのだから、矛盾はない。

反論相手:では、もし個々の神々が個々の動物やなどと同じように連続的に発生し、同じように消滅するのであれば、言葉、言葉の意味、言葉の発音者に基づく行動の連続性に不連続性はなく、したがって関係の連続性によって、ヴェーダの言葉が永遠でなくなるという欠陥は回避できると認められるかもしれません。しかし、ヴェーダやスムリティの中で、三つの世界からなる全被造物は、その名前と形を失い、跡形もなく消滅し、再び新たな存在として現れると述べられているにもかかわらず、この困難をどうやって回避できるのだろうか?

ヴェーダンティン:それに関しては、これが答えです。(ヴェーダの始まりの無さには矛盾はない)名前と形の類似性があるからです。(最終的な消滅dissolutionと創造を信じるのであれば)それでも創造の始まりの無さも認めなければなりません。師(ヴィヤーサ)は、「さらに、これは論理的であり、そのように受け止められる」(Bs.II.i.36)という格言の中で、この始まりの無さを立証(establish)します。眠りと目覚めの融合と出現について耳にすることがあるが、それでも矛盾はない。というのも、その後に続く目覚めの状態での行動は、始まりの無さの世俗(worldly現世)の状態の場合、その前の状態でのパターンに従うからである。同様に、その後のサイクルにおける創造と消滅も、何の困難も生じないと理解されるべきである。 また、ウパニシャッドのテキストには、睡眠状態と覚醒状態における意識の融合と出現は、「眠っている人が夢を見ないとき、彼はこのプラーナ(すなわち自己)そのものに統一(unified in)される。その時、発語器官はすべての名前とともにプラーナに一体化(merges)する。視覚器官はすべての形とともにプラーナに統一され、聴覚器官はすべての音とともにプラーナに統一され、心はすべての思考とともにプラーナに統一される。そして魂が目覚めると、ちょうど燃え盛る火から火花が四方八方に飛び散るように、自己からすべての器官がそれぞれの座へと向かう。器官から神々が出現し、神々から感覚対象が出現する」(Kau.III.3)

反論相手:睡眠中は他の個体の実験的行動が途切れることなく継続し、眠りから目覚めた人間は過去の行動を思い出すことができるので、矛盾はないと認めることができるかもしれない。しかし、すべての行動は最終的な消滅で全滅(eradicated)し、過去の創造サイクルにおける行動は、過去の人生における(前世での)行動のように記憶に呼び起こすことはできないので、この類推は適切ではない。

ヴェーダンティン:その欠陥は生じません。なぜなら、最終的な消滅が介入してすべての経験的な行動を消し去ったとしても、それでも神の恩寵により、ヒランヤガルバのような神聖な存在が以前のサイクルでの行動を思い出すことは合理的に可能だからです。普通の生き物が過去世を思い出すことがないという事実から、神聖な存在も同じでなければならないということにはならない。生きとし生けるものは、人間から草の茂みまで数えればすべて同じであるが、それでも、智識や栄光などの顕現を妨げる障害は、一連の各段階を通じて連続的に増大していることが注目される。同様に、智識や栄光などが、人間自身からヒランヤガルバまで数える各段階の連続においてますます明らかになる(manifest)ことが、ヴェーダやスムリティの中で複数回言及されている場合、それを存在しないものとして無視することはできない。このことから論理的に導かれるのは、眠りから覚めた人の類推で、ヒランヤガルバのような存在は、過去のサイクルにおいて極めて優れた方法で瞑想と作業を行い、現在のサイクルの始まりに(過去の達成の結果として)現れ、神の恩寵を授かったことにより、過去のサイクルにおける行動を思い出すことが可能であるということが論理的に導かれます。これを裏付けるヴェーダのテキストがあります。「解脱を切望しながら、そのお方はヒランヤガルバを初めに創造し、ヴェーダをヒランヤガルバに伝えたその存在自身に似せて変容された私の知性において、私は自ら輝き顕現させるそのお方に帰依します」(Sv.VI.18)また、サウナカらは、リシ(聖仙)、マドゥクチャンダスらがリグ・ヴェーダのマントラの預言者(seers)であったと述べている。同じように、他のヴェーダの(カンダの)部分に関しても、ボダーヤナらは、それらもまたリシ(聖仙)によって見られたと述べている。さらに、ヴェーダはまた、供養祭(the rites儀式)がその預言者を知った上でマントラと共に執行されることを示している。例えば、「預言者、韻律、神格、適用方法(application)を知らないままにマントラで供儀を執行したり、マントラで教えたりする者は、動かないものに入るか、地獄に落ちる」と始まった後、「それゆえ、あらゆるマントラでこれらを知るべきである」と言われています。さらに、善行は生き物の幸福を得るために命じられ、悪行は悲しみを避けるために禁じられています。また、好き嫌いは、直接、あるいは聖典から知ることができる幸福と悲しみについては生じるが、それ以外のものについては生じない。したがって、美徳と悪徳の結果として連続的な創造が起こるとき、それらは前の創造とまったく同じように存在するようになります。これに関連して、スミリティのテキスト(*38)がある。

(*38)text:Visnu-Purana,1.v.59-61; Mbh.sa.4.231.48-49.

「その中でも、以前の創造で特定の行動様式を採用した生き物(creatures)は、再び創造されたときにも、まさにその過程を採用するのであり、その行為(works)が有害であろうと無害であろうと、優しかろうと残酷であろうと、美徳と結びついていようと悪徳と結びついていようと、真実であろうと偽りであろうと、それらの行為の影響下にある。したがって、それぞれがそれぞれの行為に好意を持つ」 この宇宙が溶解されるとき、その潜在力をそのままにすることで溶解し、次の創造はその潜在力から出現します。そうでなければ、すべては偶然の産物(つまり、原因なくして結果が生じる)になってしまうからだ。いまや、さまざまな種類(*39)の多様な力を想像することはできない。そうであるならば、感覚と感覚対象との関係が固定されているのと同じように、この始まりの無い宇宙においても、神々、人間、動物といった生き物の集団の連続の配置、カースト、人生の段階、美徳と悪徳、およびそれらの中断後に生じる結果の配置も固定されていると理解する必要があります。というのは、第六器官に対して対象を空想することが不可能であるのと同様に、例えば感覚と感覚対象との関係に現れているような行動のパターンが、すべての新たな創造物(*40)において異なるものでありうると空想することは不可能だからである。

(*39)kinds:無智だけが唯一許容される力である。

(*40)creation:心は第六の器官である(Gita,XV.7)心にはそれ自身の明確な対象はない。幸福などは観察者によって認識されるからである。つまり、「第六の器官に対象を空想する」とは、実体のないものを考えるということである。あるいは、眼などのほかに第六の器官は存在しないので、その対象の存在には疑問の余地がないという意味である。他の感覚器官と感覚対象については、関係の固定性がある。例えば、創造のどのサイクルにおいても、耳では色を知覚できない。

したがって、あらゆる創造のサイクルにおいて行動パターンが同じであり、強大で神聖な存在がそれ以前の創造のサイクルにおける人生を思い出すことができるという事実から、各創造における特殊なもの(particulars)は同じ(特徴のある)名前と形で現れるということになる。宇宙がそのサイクル(最終的な消滅と新たな創造)において、同じ種類の名前と形を持っていると考えることから、ヴェーダの正当性との矛盾は生じない。名前と形の類似性は、ヴェーダのテキストやススムリティによって示されている。「聖職者(ordainer)は、太陽と月を創造し、また幸福の住処である天国、地球と空間も、以前と同じように創造した」(R.V.X.cxc.3)これは、至高の主が太陽や月などの宇宙を、前のサイクルと同じように創造されたことを意味する。「火は願った。“私は神々に食物を与える者になろう”(星座の神々の)クルティカ星座に敬意を表して、彼(*41)は火の中で供物を捧げ、その中で八つの皿で焼いたケーキを捧げた」(Tai.Br.III.i.4.1)というこのテキストは、星々に敬意を表して供物を捧げる過程で火の中に供物を捧げた執行者と、捧げられた火が同じ名前と形を持っていたことを示している。同じ趣旨の他のテキストもここに引用する。

(*41)he:「私は火になり、食物を食べる者になる」という考えで供物を捧げる執行者は、次のサイクルでは火の神となり、それゆえ執行者であっても火と呼ばれる。

スムルティのテキストには、「消滅が終わった後に生まれた予言者たちに、未生なるお方は、彼らが以前持っていたようなヴェーダのテキストのまさにその名前とそれらのヴィジョンを授ける。さまざまな種類の異なる季節の兆候が順番に回転するのが見えるように、すべてのものはユガ(周期)の始まりに現れ、そして、過去に存在したものがそれぞれに固有の形がどのようなものであれ、それらは現在の存在のものと完全に一致する。神々は形も名前も過去の神々に似ている」(Mbh.Sa.,231.58,210.17)このような他のテキストも参照してください。

最後に

今回の第一篇第三章三十節にて引用されている『ブラフマ・スートラ』と『シュヴェタ・シュヴァタラ・ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を以下にてご参考ください。

さらに、これは論理的であり、そのように受け止められる。

(Bs.II.i.36)

(Kau.III.3)→カウシータキ・ウパニシャッド

この神様は、太古にあって創造主ブラフマ神をお造りになられ、まさにこのブラフマ神にヴェーダ聖典をお授けになったお方なのです。真我の智慧となってご自身を顕わにされた(アートマ・ブッディ・プラカーサム)この神様に、まさに私は帰依し奉り、解脱を願い(ムムクシュ)奉るのです。

(Sv.VI.18)

不滅である我の一部は、生類の世界の中での個の生命(ジーヴァブータ)となって存在し、根本自性から生じた五知覚器官と意思とを惹きつけているのだ。

(Gita,XV.7)

(R.V.X.cxc.3)→リグ・ヴェーダ

(Tai.Br.III.i.4.1)→不明

(Mbh.Sa.,231.58,210.17)→マハーバーラタ

今回の三十節を要約すると

ヴェーダ聖典や聖伝聖典にも記述されているように、宇宙が輪廻したとしても事物の名称と形態は変わらない故に、ヴェーダ聖典の永遠普遍性には矛盾はない。

いいなと思ったら応援しよう!