「至福なるものは他を元気にさせる故にブラーフマンは至福を発する源である」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.14)
はじめに
今回の十四節は、ウパニシャッドのテキストにこのように述べられているからということだけではなく
私たちの至福の源とは何か?
ということを熟考する機会として述べられているように思います。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章十四節
14節 なぜならば、その他にも、ブラーフマンが至福の源であると示されているからである。
接尾語mayatが多様性(abundance/豊かさ)の意味で使われているのは、ウパニシャッドのテキスト「この方は実に人々を活気づける」(Tai. II. vii. 1)が、ブラーフマンを至福の源と宣言しているからである。(このテキストにおける)アナンダヤティという言葉は、ドナンダヤティと同じ意味である。他者を喜ばせる人は、多様な豊かさ(rich/至福)を持っていることが知られている。ちょうどこの世で、他者を富ませる人が至福の多様性があることが知られていることと同じである。このように、mayatは多様性という意味でも使われるので、至福なるものは至高の自己であるに違いない。
最後に
ごく短くまとめれば、今回の十四節は
「その他にもこの歓喜なるものは他を元気にさせるというような記述がウパニシャッドにあるという理由の故に、絶対者ブラーフマンは歓喜の発してくる源なのである」
ということになりますし、また、この歓喜の源たる絶対者ブラーフマン、つまり、神様と心が結びついている人物とはどのようなものかと言えば
恐れを知らない、競争を知らない、取り引きを知らない、というようなスワミ・ヴィヴィーカナンダ師がアメリカでの講演会で述べた「愛の三角形」を体現することとなります。
私たちの元気の源は何かと考えるとき、人それぞれに、家族かも知れないし、子供かも知れないし、パートナーや仕事、趣味というそれこそ多様性に溢れています。
しかし、それらすべてに共通していることは、残念ながら永遠ではないと言うことになります。そして、良い意味でも悪い意味でも変化します。
元気の源もしくは至福の源が出てきたり無くなったりとするならば、泥沼の土地に家を建てるようなもので、不安定きわまりない日々を送ることになるでしょう。
多様性として見えるものの源としての絶対者ブラーフマンに心を結びつける生き方が、その選択肢が、その権利が、私たちに平等にあると説くのがヴェーダーンタ哲学でもあり『ブラフマ・スートラ』となります!
元気に満たされるとき、もしくは、至福や歓喜に満たされるとき、そのとき、その源とは何か?に触れる機会と言えますし
また、逆に、元気のゲの字も出ないとき、もしくは、恐れ・不安・疑念に襲われるとき、そのとき、それらの多様性ではない(恐れ・不安・疑念には縁もゆかりもない)私たちの共通の絶対無二の源とは何か?に触れる機会かも知れません。
このような極端のとき以外にも源に触れる機会でもあると言えます!
なぜならば、いつでもどこでも、この源から私たちの誰もが離れることができないのですから!
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