「心臓内の空洞に入ってきた二者とは何者か?の答え」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.11)
はじめに
今回の十一節と次回にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』とは、古ウパニシャッドの中では中期に分類され、賢者アンギラスから、賢者シャウナカに伝えられた話として、ブラーフマンとアートマンとの一体性などについて述べられるのだが、確か講義で習った覚えがあるけれど資料がありません。
『ムンダカ・ウパニシャッド』は、3つのセクション(ムンダカ)に分かれていて、それぞれがさらに2つ(カンダ)に分かれているのですが、メタファー(隠喩)とアナロジー(類推)を使うことでよく知られているとのことです。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十一節
表題3 心臓内の空洞の中の二者
11節 (心臓の)空洞に入った二者は、個別の自己と至高の自己であり、それが(他のテキストで)見られるものである。
疑問:『カタ・ウパニシャッド』にはこうある。「ブラーフマンを知る者、五火を崇拝する者、ナーチケータの犠牲祭を三度行う者は影と光に例えられる。自分の仕事のリタ(必然的な結果)を飲む肉体の中に入った二人の者は、至高なるものの至高の住まいである(心臓の)空洞に入ったのである」(Ⅰ.Ⅲ.1)これに関して疑問が生じる。ここで言及されているのは知性と個別の魂なのか、それとも個別の魂と至高の自己なのか?もし知性と魂について言及されているのであれば、このテキストは、魂は知性が優勢な肉体と器官の集合体とは異なることを立証している。
その魂もまた、ここで提示されなければならない。なぜなら、それは「人の死の結果によって生じる疑念、ある者はその人は存在すると言い、ある者は存在しないと言う。私はあなたの指導のもとでこのことを知りたいと思います。これが三つの恩恵の三番目です」(Ka.I.i.20)という質問で求められたからである。しかし、魂と至高の自己に言及するのであれば、ここで説かれているのは、個別の魂とは異なる至高の自己である。それも、「美徳とは異なるもの、悪徳とは異なるもの、これらの因果とは異なるもの、過去とも未来とも異なるものを教えてください」(Ka.I.ii.14)という質問を通して尋ねられたのであるから、それもまた説明されなければならない。
これに関して反論相手は言う:この2つの選択肢はどちらも認められません。
なぜか?
なぜかというと、「リタを飲む」(Ka.I.iii.1)という表現は、仕事(カルマ)の成果を経験することを意味するからである、 というのも、「この肉体における自分自身の働き(カルマ)の結果」(同書)には、それを示す印があるからだ。そして、それは、肉体を認識している感覚のある存在には可能であるが、無感覚な知性には不可能である。その上、ウパニシャッドは、ピバンタウという言葉によって、両数(in the dual number)において、両方が飲むことを指し示している。したがって、魂と知性のどちらかの側に立つことは不可能であり、まさにこの理由から、個々の魂と至高の自己のどちらかの側に立つことは不可能である。このことはマントラのテキスト「もう一方は食べずに見ている」(Mu.III.i.1)で否定されているからである。
これに対して、疑う者は言う:何の問題もない。「傘を持った人々が行く」という文の中で、傘を持つ一人の人(つまり王)が、「傘を持った人々」という比喩的な呼称を集団全体に与えていることがわかる。同様に、一方が経験しているという事実から、両方が経験していると言えるかもしれない。あるいは、個人は一人で経験し、神がその人を経験させるのかもしれません。そして、神が経験をさせるので、他の人に料理をさせる人が料理をしていると言われるのというよく知られた事実の類推で、神は経験をしていると言われる。また、知性と個別の魂を受け入れることも可能であり、道具(つまり知性)の場合には、「燃料が料理する」というような表現が可能であることから、行為者(agentship)という比喩的な用法がある。また、肉体という文脈では、仕事(カルマ)の成果を経験する他のひと組(pair)はあり得ない。それゆえ、このような疑問が生じるのである。知性と個別の魂、あるいは個別の魂と至高の自己のどちらであるべきか?ここでの結論はどうあるべきか?
反論相手:それは知性と個別の魂に違いない。
なぜか?
なぜなら、「空洞に入った」という条件があるからだ。空洞という言葉が肉体を意味するのか、心臓を意味するのか、いずれにせよ、知性と個別の魂がその空洞に入ったというのは道理にかなっている。それに、もし別の説明が可能なら、遍在するブラーフマンに特定の場所を空想するのは適切ではない。さらに、「肉体における自分自身の仕事の結果の」という表現は、仕事(カルマ)の結果の限界が超越的ではないことを示している。至高の自己は、「仕事(カルマ)によって増加することも減少することもない」(Br.IV.iv.23)に示されているように、メリットとデメリットの限界の中に閉じ込められることはない。また、光と影という用語は、感覚のあるものと感覚のないものを指しており、光と影のように互いに対立している(Ka.I.iii.1)。したがって、知性と個別の魂は、ここで語られているものとして受け入れられるべきである。
ヴェーダンティン:このような立場から、私たちはこう言います。知性と同一視される個別の自己と至高の自己が、ここで語られています。
なぜそうなのですか?
なぜなら、これらはどちらも自己であると同時に意識的であり、同じ性質を持っているからです。というのも、経験の問題ですが、数える場合において、人は同じ種類の単位が語り続けられていることを当然と考えるからである。誰かが「この牛のもう一頭(つまり、この牛の仲間)を探さなければならない」と言うと、牛だけが探され、馬も人も探されない。同じように、この場合、知性と同一視される個別の自己が、仕事(カルマ)の成果を経験するという印の助けを借りて確認された後、第二の存在を探し始めると、同じ性質を持つ至高の自己が私たちの認識内に入ります。
反論相手:空洞にとどまっているという事実に気づいた後では、至高の自己を認識することはできないと言いませんでしたか?
ヴェーダンティン:私たちは言う。至高の自己は、まさにその空洞にとどまっているという事実そのものから認識されるべきである。なぜなら、空洞の中にとどまるという事実は、ヴェーダやスムリティの中で、至高の自己そのものについて非常に頻繁に宣言されているからである。例えば、「悟りを開いた者は、(心臓の)空洞に位置し、近づきがたい不可解な存在である古い神に心を集中することによって、幸福と悲しみを放棄する」(Ka.I.ii.12)、「心臓の空洞の中の至高の空間に坐す至高の者を知る者」(Tai.II.i)、「空洞に入り込んだ自己を求めよ」などである。そして、私たちは、ブラーフマンは遍在しているが、ブラーフマンの悟りに適した場所としてどのような場所についても教えることは、矛盾を伴わないと以前に述べた。仕事(カルマ)の成果が十分に獲得した真っ直中に存在することについては、これは一方にのみ可能であるが、「傘を持つ人々」の例えで両方に主張することができる。
「光と影」という表現も調和がとれている。なぜなら、輪廻転生する自己と超越する自己は、影と光のように両極に分かれているからだ。輪廻輪廻は無智の迷宮であり、輪廻輪廻の超越は至高の現実だからです。それゆえ、知性と同一視される魂と至高の自己は、空洞に入り込んだ二者として認識されるべきである。他にどのような理由で、知性に同化した魂と至高の自己に同化した魂が受け入れられるのでしょうか?
最後に
今回の第一篇第二章十一節にて引用されている『カタ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十一節を要約すると
心臓内の空間に入ってきた二者とは、個我(個別の自己)とブラーフマンであるのは、他の聖典にそのように書かれているからだ。
となります。ここでは「空洞」を「空間」としているのは「空洞」だと物理的な場所を指しているニュアンスがあるので「空間」としています。
現代の私たちにとって、天啓聖典と呼ばれている天から啓示された聖典に述べられているのだからそうなんだという論理は「へーそうなの」という感じで、これ自体に関しての証明もエビデンスも何もなしというのはおかしいのではないかという反論もできるかもしれません。
この講義を学んでいる当時の私にとって、何もかもブラーフマンに結びつけてなぜなら聖典に述べられているというくくりは「何だかな」という感じがあったものです。
『ブラフマ・スートラ』は論理聖典と呼ばれていますが、しかし、究極的には感性でセンスにて享受する世界なので、論理や理屈が通じなくて、体験するしかない世界に“note”をお読みの智者である皆様もこれから脚を踏み入れることになるわけです。(すでに踏み入れた方々もいらっしゃりますね)
“Who am I ?”の私たちの“I”とは、一番粗雑な“I”であり、それは、職業的な人間でこういった職業を生業としている人間であるとか、このような名前をもった人間などなどのように、たくさんの個我(ジヴァートマン)という(化けの)皮もしくは鞘を言い表すことができます。
その個我とは別に、私たちの心臓に宿っている実在がいるとここでは言われていて、その実在はブラーフマンであり、その実在は宇宙全体に満ちているとしています。「サット(実在)」「チッタ(智識)」「アーナンダ(至福)」としての性質が備わっているということをシャンカラ師は伝えていると推論できます!
そのことが私たちにどのような意味をもたらすのかは十一節に譲ることとします。