「天啓聖典の記述よりブラーフマン以外の除外によりブラーフマンは不滅なるものだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.12)
はじめに
今回は、そのまま日本語にすると分かりにくいので以下のように意訳しています。
たとえば、12節は、「そして、他の実在であることを排除するためである」を「そして、実在以外を除外するという理由となります」そして「他の存在から排除されるというさらなる理由から」を「実在以外から除外するというさらなる理由から」というようにしています。
英語が標準語ではないので、英語だとそのまま文脈として意味が通るのかもしれませんが、日本語の素晴らしさにより意味として分かりやすくできます。私たちは日本語を話し読むことができることは幸せだと思います!
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章十二節
12節 そして、実在以外を除外するという理由となります。
実在以外から除外するというさらなる理由から、ブラーフマンのみがアクシャラという言葉の意味であることがわかる。というのも、空間(アーカーシャ=虚空)によって終わる万物を保持する御業は、ブラーフマンだけに属するものであり、他の何ものでもないからだ。
反論相手:「実在以外からの除外」とはどういう意味ですか?
ヴェーダンティン:これは次のことを意味しています。Azyabbdvaとは、何か他のものである状態を意味し、そうであることからの除外とは、amyabhava-vyavrttiである。「ガールギーよ、このアクシャラは決して観る者(観照者)であって観られることなく、聴く者であって決して聴かれることなく、思う者であって決して思われる者ではないが、識る者であって決して識られる者ではないのだ」(Br.III.viii.11)というテキストは、空間(アーカーシャ=虚空)を含む万物を支えるアクシャラを、ブラーフマンと異なる他のすべてのものから区別しており、それがアクシャラという用語の意味であると推定できる。そのテキストでは、プラダーナにも見られることがないなどの属性が帰属させられるが、プラダーナは無感覚(無意識)であるため、観照者などとは言えない。「これ以外に観照者はいない」(同上)で述べられているように、自己におけるいかなる差異も否定していることから、限定的な付属物によって条件づけられている肉体化された魂もまた、アクシャラの意味にはなり得ないということになる。そして、これは、「目も耳もなく、発語器官も心もない」(Br.III.viii. 8)というテキストによって、すべての条件づけ要因が否定されているという追加的な理由からもそうであり、条件づけ要因がない限り、肉体化された魂は存在し得ないからである。したがって、至高のブラーフマンだけがアクシャラであるというのが、明確な結論である。
最後に
今回の第一篇第三章十二節にて引用されている『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十二節を要約すると
天啓聖典である『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』による記述から実在であるブラーフマン以外の除外により至高のブラーフマンだけがアクシャラ、つまり、不滅なるものであるとの結論に至る。
今回引用された『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』の節は、ヨーガの技術に関して述べるとすれば、「観る者(観照者)であって観られる者(被観照者)ではない」とのことから、「観ること」そのものが「無智さ」の所業であることになりますが
そのままの意味として捉えるならば、「観られる者ではない」ものをどのように識ることができるのか?という疑問が生じるかもしれません。
しかし、「無智さ」に浸食されている私たちにとって、浸食されている個我としての「観る者」が観る対象を、理智(ブッディ)という内的心理器官がそれぞれの感覚器官による情報を意思(マナス)を通じて判断し、運動器官によって行為という形で反応している現実(幻想・空想)となっています。
このような智慧を見失っているとき、たとえば、食べ物という対象に対して、お腹がふくれて満たされている状態でも欠乏しているとして食べまくってしまうことがあるかもしれません。
本来、理性が働く智慧の理智(ブッディ)によって、「観る者」として観る対象である「無智さ」に浸食されているその所業を観て識ることによって、食べ続けることを止めるという選択があるとして、決断することを可能とし、幻想と呼ばれている現実でも、運動器官による行為という形で正しく適切に反応できるとウパニシャッドでは考えられています。
ヨーガは手段であり技術なので、シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』にような聖典を学び、その智慧をヨーガという手段で「観る者」としての智慧の大元をブラーフマン(神)までその段階を高めていくという作業を試行錯誤しながら、たとえば、こういった場合は聖典にはこのように書いてあるからこのように考えてこういった行為で反応するのかなという仮説を立てたり、賢く優れた師匠の元に学んでいるのならば、師匠はこのようにおっしゃっていたからこうすべきなのだろうとか…
仮説→検証→実証して普遍化するという繰り返しの中で試行錯誤しながら智慧の大元であるブラーフマン(神)へとさまざまな形態の応用問題を解きながら通過していくのは、ウパニシャッドの手法と現代科学の手法と同じ実験室だと言えます。