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「アーシュマトラ大師によれば顕現の仕方からしてヴァイシュヴァーナラをブラーフマンであるとしている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.29)


はじめに

今回引用された聖師アーシュマトラ大師について言及した文章をみつけたので下記にてご参照ください。

アーシュマトラと差異と非差異の教義 以下は、中村元著『初期ヴェーダーンタ哲学の歴史』384-385 ページからの抜粋です。

「アーシュマトラの理論はブラフマ・スートラに 2 回登場します。至高の自己は親指と人差し指を広げた程度の大きさしかないという聖典 (Ch.V.18.1) の言葉の意味は、ブラフマ・スートラ (I.2.29) で論じられています。この点で、アーシュマトラは、主は無限の大きさを持っているが、崇拝者が崇拝を行えるように、そのような大きさで崇拝者に姿を現す (abhivyakti) と主張したと言われています。

さらに、ブラフマ・スートラ(I. 4. 20)によれば、アーシュマトラは、ブラフマ・スートラで議論されているヤージュナヴァルキヤとマイトレーヤの会話(Br. 1,4,5; IV,5,6)に関連して、アートマンを「見られる」ものとして教えることは、ウパニシャッドの約束(プラティジャ)「アートマンが知られたとき、これらすべてが知られる」(Br. I, 4, 5参照)が実現できることを示す印(リーガ)と見なされるべきであると主張しました。注釈者(バースカラ、アナンダジニャーナ、ゴーヴィンダナンダ)によると、彼の理論は「差異と非差異」ですが、彼らはこの主張が非差異に関するものであると解釈しています。至高の自己と個々の自己は異なる原理であるが、共通点がいくつかあるため、「アートマンが知られると、すべてが知られる」という約束は可能である。もし両者が完全に異なるものであれば、そのような約束は決して実行できないだろうと彼は言う。

「もし個我と至高の自己が絶対的に異なるものならば、この一節で個我に言及して始まり、それから至高の自己に言及して結論に至る教えは、連続性に欠けることになる(つまり、類推)。また、約束(聖典にある、アートマンが知られるとすべてが知られる)は実行されないだろう。したがって、まず非差異の側面が教えられたのだ」

「バマティ(同上)によれば、アーシュマトラは至高の自己と個我の関係を火と火花の関係に例えた。至高の自己(またはブラーフマン)と個我の関係を火から飛び出す火花に例えることは、古代ウパニシャッド(Br.1.1.20、Mu.W.1.1、マイトリ・ウパニシャッド V1.26、31)ですでに教えられている。アーシュマトラはこれを受け入れ、この寓話は後にヴェーダーンタ学派によって頻繁に使用される。非常に初期には、ブラフマ・スートラ III.2.28、ドラヴィダチャリア断片 13、マンドゥキヤ・カリカ 1.6 で言及されており、その後も、ニンバルカや他の人々が同じ見解を説いていた。その後、一方で、マンドゥキヤ・カリカ III.15 とシャンカラによって、究極の現実の真の理論ではないと批判された」 この教義の代表として、おそらくシャンカラ・バガヴァットパダとほぼ同時代人であったバートルプラパンチャを挙げることができるだろう。この教義のより初期の提唱者はまだ誰も発見していない。

Difficulties in Finding the True Method of Advaita Vedanta of Shankaracharya – Part 2 : Pre-Shankara Schools

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十九節

29節 アーシュマトラによれば、(神が空間的に限定されていると言われるのは)顕現の観点からである。

至高の主があらゆる制限を超越しているとしても、(主の)顕現のためには空間的な制限があり得る。なぜなら、至高の主は、崇拝者(worshippers)のために(その威厳を)顕現されるからです。あるいは、心臓のような特定の場所で特別に顕現されるのであり、それは主の啓示のための場所(pradesa)であるから、顕現の観点からは、至高の主の場合であっても、空間的な制限についてのテキストは正当である。これがアーシュマトラの考え方である。

最後に

今回の二十九節を要約すると

その顕現の仕方からしてもヴァイシュヴァーナラはブラーフマンであると、聖師アーシュマトラ大師もおっしゃっている。

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