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「ブラーフマンが万物の源であり、個我もプラダーナも相違している」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.22)


はじめに

「プルシャ」という言葉が出てきますが、この「プルシャ」とは、インド神話において、世界の最初に存在したとされ、『リグ・ヴェーダ』では原人プルシャの身体から太陽や月そして神々や人間など世界のすべてが生まれたとする千個の目と千個の頭と千本の足を持つと言われているようです。そして、サーンキヤ学派が提唱する精神原理「プルシャ」と根本原理「プラクリティ」が対置されています。(そして、サーンキヤのプラダーナと本文中にありますがサーンキヤにおけるプラダーナと同じ意味となります)

しかし、ヴェーダーンタ哲学においては、この「プルシャ」と「ブラーフマン」を同じ意味として受け取っていただいてよろしいかと思います。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十二節

22節 そして、他の二つ(すなわち、個別の魂とプラダーナ)は意味されていません。なぜなら、そこには(ブラーフマンの)独特の特徴と(その)二つとの違いが述べられているからです。

このさらなる理由から、神だけが万物の源であり、プラダーナも個別の魂もそうではありません。

なぜか?

「特徴と違いについて言及しているため」なぜなら、異なる特徴の力によって、文脈に関連するすべてのものの源は、テキストの肉体化された魂と区別されているからである。「プルシャは超越的である。なぜなら、彼は形がなく、外的および内的すべてと共存し、生を持たないため、生命力も心もない。彼は純粋であり、(他の)優れた不変のものよりも優れている」(Mu.Ⅱ.i.2)これらの超越性などの特徴は、無智によって作り出された名前と形によって課せられた制限に自分自身を同一視し、それらの属性を自分のものとして想像する肉体化された魂には論理的に当てはまらない。したがって、ウパニシャッドでのみ見られるプルシャ(意識のある遍在する存在)は、ここで直接言及されている。同様に、この文脈に関連する万物の源は、テキストの中でプラダーナとは異なるもの「優れた不変のものよりも優れたもの」(同上)として言及されている。不変なものは、顕現していない(つまり始まりのないマーヤ)ものであり、名前と形の源(つまり神)に属する一種の力であり、それ自身のすべての要素の潜在的な状態であり、神を支えとし、神自身(*13)の限定的な付属物であり、すべての変化よりも高いが、それ自体は変化しない。「その優れた(不変の)マーヤよりも優れている」という文言を通じて違いを宣言することにより、テキストは、ここで語られるべきものは至高の自己であることを示している。プラダーナと呼ばれる独立した原理が認められ、それからそれとの違いがここ(格言で)示されているというのは事実ではありません。

(*13)Himself:神と被造物との違いを生むこと。

では何が認められるのでしょうか?

プラダーナ (マーヤまたは無智を意味する) と呼ばれる原理が想像され、このプラダーナが「顕現していないもの」や「すべての要素の潜在的な状態」などの用語で呼ばれていることがウパニシャッドに何ら影響を与えることなく主張されるなら、その想像(*14)に従うのも当然だと考えられています。ウパニシャッドはそれとの違い (不変) について言及しています。したがって、ここでは神が万物の源であることが確立された。

神が万物の源であるのは、さらにどのような理由があるからだろうか?

(*14)imagination:なぜなら、それによってあなたはマーヤについてのみ話しているが、それはプラダーナという別の名前で、その言葉は「生産物(the products)として知覚されるもの」という語源的な意味を持つかもしれない。たとえ反対者が、この格言家が反駁しているのはまさにこのプラダーナであって、サーンキヤのプラダーナではないと言うとしても、それでも争うべきことは何もない。なぜなら、サーンキヤの見解はそれとともに否定されるからである。

最後に

今回の第一篇第二章二十二節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

実に、プルシャは天井にあり、形態を有しない。それは、外にあるもの、および内にあるものを含み、実に、まだ生まれていない。それは、息もなく、思慮もなく、輝き、かなたの不滅なるもののかなたにある。

(Mu.Ⅱ.i.2)

今回の二十二節を要約すると

個我(個別の魂)とプラダーナ(根本原質)という二つの存在は、ここでの論議には語られていない。なぜならば、ブラーフマンの性質とブラーフマンから誤って作られたとする個我とプラダーナとの違いが『ムンダカ・ウパニシャッド』にて指摘されている。

というのは、「プルシャは生まれていない」、生まれてしまったならば死ぬということになりますので、不滅とはならないので違うということになります。ここのところの、不生不滅というのは仏教の般若心経の中に取り入れられたのかもしれません。

そして、プラダーナ(根本原質)とは、マーヤという無智さから誤って生じたとされる現象であり、変化するものである点においても不変だとするウパニシャッドとの記述に矛盾するからだ、となります。

「それは、息もなく、思慮もなく、輝き、かなたの不滅なるもののかなたにある」という存在が実在すると古来よりインドでは伝えられていて、論理としても確立されているということですが

このことを信じるのか信じないのか、また、受け入れるのか受け入れないのか、ということは、聞いた者の自由となります。

しかし、不思議なことに、そのような存在が実在するということを受け入れて、その教えを生きた人たちがどのような人格を形成してきたのかを問うならば

極悪人と呼ばれるような人間となったのか?社会の鼻つまみ者ができたのか?

決してそうではないことが聖者と呼ばれる方々によって次々と時代を経て証明されることで、多くの人たちの手本となるような人格を見せてくれています。

この“note”を読まれている智者または賢者の方々は、その候補生もしくはすでに証しとして存在の光を放っていくことでしょう。

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