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「ガヤトリ・マントラに集中することで心をブラーフマンに専念する方法が教えられている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.25)


はじめに

ガヤトリ・マントラはヨーガの行者で唱えない者はいないですし、先生のお師匠様は弟子たちに何百万回唱えろとご指導されていたほどに、精神を絶対者ブラーフマンに専念することによって、神様そのものを感じ取ることができる詩の韻律になります。

しかし、シャンカラ師がインド中を旅しながら議論を重ねていた当時は、お釈迦様が説かれた仏教が台頭してから徐々にインドでは末期的症状に陥っている時に、ヴェーダーンタの教えが再興するような時代だったようです。

そこで、再興してきたヴェーダーンタの伝統に対して、仏教徒や仏教の学者さん方がいろいろな方面から批判が生じた頃で、今回の節(このことが仏教方面からの批判かどうかは不明ですが)に触れているように、これまでの記述は詩の韻律についてブラーフマンを語ることができないのではないか、とか、詩の言い回しのマントラだとするのならばそれはブラーフマンについて説明にはならないだろう、とか、そもそもブラーフマンを言葉で語ること自体が不可能じゃないか、とか、そういったことを根拠にしてブラーフマンが太陽の中にいるとかなどは間違いじゃないか、などのようなことに対してシャンカラ師がヴェーダーンタ哲学の立場から反論するわけです。

オーム 
神様

ブフー ブヴァー スヴァハー 
偉大なるイシュワラ(自在神)に瞑想させていただきます

タットゥ サヴィトゥル ヴァーレーニャム 
御身こそ、大宇宙の創造主

バルゴー デーヴァスシャーディーマヒー 
礼拝に値する存在であり、あらゆる罪と無智を消し去ってくださる御方

ディヨー ヨー ナー プラチョー ダヤートゥ
どうか我らをその神智で満たしたまえ

ガヤトリ・マントラ

マントラはその意味にともなう想念、つまり、その想念がブラーフマンに専念することそのものとして大切なので、ただ唱えても神様を感じることはできないです。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十四節

25節 もしも、ブラーフマンが語られていないとして反論されるならば、それは韻律についての言及だからであり、私たちはそうではないと言う。というのは、心の専念はそのように説かれているからであり、同じような例が他の場所にも見受けられるからだ。

反論相手:以前のテキストでも、ブラーフマンは語られていないと主張されましたが、ガーヤトリーという韻律は、そこで「ガーヤトリーは、まさに存在するこれらすべてのものである」(Ch.III.xii.1)と言及されているからです。

ヴェーダンティン:その反論には応えなければなりません。また、Rkマントラで「それだけは彼の栄光である」(Ch.III.xii.6)と4本の脚を持つブラーフマンが示されているのに、韻律について言及されているからといって、ここではブラーフマンについて語られていないと主張できるでしょうか?

反論相手反対者:そんなはずはない。ガーヤトリーという韻律は、「ガーヤトリーはまことにこのすべてである」(Ch.III.xii.1)と紹介され、まさにそのガーヤトリーは、大地、肉体、心臓、言葉、生命力といったすべてのものと同一であると説明されている。そして、説明されたまさにそのガーヤトリーに関して、「そのようなガーヤトリーには4本の足があり、それは6部分である。この事実は、Rkマントラ“それだけが彼の栄光である”」などの中で明らかにされている。このように、まさにそのガーヤトリーについて引用されたこのマントラが、どうして突然、4本の脚足を持つブラーフマンについて語ることができるのだろうか?テキスト中で使われている「このブラーフマンであるもの」(Ch.III.xii.7)というブラーフマンという言葉も、韻律だけを指している。「このブラーフマン(すなわちヴェーダ)の秘密の教えを知っている者」(Ch.III.xi.3)というテキストでは、ヴェーダの秘密の教えが参照されていると説明されている。したがって、韻律について語られている限り、ブラーフマンは議論の対象ではないと主張できるのではないか?

ヴェーダンティン:それは根拠がない。なぜなら、「心に専念することは、そのように教えられる」。「心の専念」とはブラーフマンに心を集中すること。「そのように」ブラーフマンが内在するガーヤトリーという韻律の助けを借りて、ブラーフマナのテキストの部分によって「ガーヤトリーはまことにこのすべてである」(Ch.III.xii.1)と教えられている。単なる文字の集まりであるガーヤトリーが、すべてのものの自己であるはずがない。したがって、宇宙の原因であり、その結果であるガーヤトリーに内在するブラーフマンは、「このすべては、まことにブラーフマンである」(Ch.III.xiv.1)と同じように、ここでも「このすべて」として語られている。また、「起源などの言葉が出てくるので、それはそのブラーフマンと異ならない」(II.i.14)という格言の下で、私たちは結果がその物質的な原因と変わらないことを指摘しなければならない。同様に、自然の媒体の助けを借りてブラーフマンを瞑想することは、「リグ・ヴェーダの下層の信奉者たちは、偉大なウクタと呼ばれる賛美歌に内在しているこの至高の自己を瞑想し、ヤジュル・ヴェーダの信奉者たちは、火に内在しているこの自己を瞑想し、サーマ・ヴェーダの信奉者たちは、マハーヴァーラタと呼ばれる犠牲祭に内在しているこの自己を瞑想する」(Ai.A.III.ii.3.12)のように、他の場所でも見られます。それゆえ、前のテキストで(ガーヤトリーという言葉によって)韻律が言及されていたとしても、そこでは4本の足を持つブラーフマンが語られている。そして、まさにそのブラーフマンは光についてのテキストで言及されており、これは新たな瞑想を促す目的で行われている。

また、数の類似性によって、ガーヤトリーという言葉が直接的にブラーフマンを指しているという説もある。ガーヤトリーは4本の脚を持っており、それぞれが6つの文字で構成されている。したがって、ブラーフマンにも4本の脚(*127)があります。同様に、韻律を表す言葉が数の類似性によって他の何かを意味するために使われることは、他の場所でも見られる。これは次のように説明できる。「ある文脈(すなわち神)では5つであるこれら(空気、火など)と、別の文脈(つまり肉体)では5つであるこれら(生命力、言語など)が組み合わさって10となり、こうしてあのクルタ(と呼ばれるサイコロとなる)」という文から始まり、次に、「これは食べ物を食べる者であるヴィラート(韻律)と同じである」(Ch.IV.iii.8)(*128)と述べられている、どちらの観点から見ても、議論されているブラーフマンは前のテキストにも存在している。この観点からすると、ブラーフマンそのものが(直接)語られているのであって、韻律(ガーヤトリー)が語られているのではない。どちらの観点からしても、議論されているブラーフマンは、前のテキストにも存在している。

(*127)feet:先ほどの説明によれば、ガーヤトリーという語は、本来の意味で韻律を意味し、アジャハラカサナーと呼ばれる比喩によってブラーフマンをも意味し、その言葉の本来の意味に加えて、さらに何かを意味する場合もある。現在の解釈によれば、そのような比喩は暗示されていない。ガーヤトリーは韻律に言及しているのではなく、直接的にブラーフマンに言及しているのだ。したがって、この格言は、韻律ガヤトリを意味しているのではなく、セトルパナニガダート(cetorpananigadat)を意味しています。なぜなら、ブラーフマンは、ガーヤトリーという言葉によって語られており、ブラーフマン、タットヴァへの心の専念の媒体として立っているからです。両者とも4本の脚を持っているという類似性に基づいているからである。

(*128)Ch.IV.iii.8:サイコロ遊びでは、4つの数字を持つクリタと呼ばれるサイコロで勝つと、他のサイコロの数字、すなわち、トレーター、ドヴァーパラ、カリのそれぞれ3、2、1が入り、クリタの数字が10に変換される。韻律のヴィラートは1脚に10文字ある。だからヴィラートとクリタは同じである。また、ヴェーダは、ヴィラートは食べ物であり、クリタはすべての数字を食べる者であると宣言している。だから、ヴィラートは食べる者であり、食べられる者でもある。

最後に

今回の二十五節にて引用されているウパニシャッドで持っている資料を以上にてご参考ください。

ガヤートリー(韻律の一種)は、ここに存在する一切の存在である。ガヤートリー(gayati)とは実に声である。声は実にこの一切の存在を歌い(gayati)、また救う(trayate)。

(Ch.III.xii.1)岩本裕訳

その偉大さはこのようであり、プルシャはそれよりさらに大である。一切の存在はその足であり、天井における不死はその三つの足である、と。

(Ch.III.xii.6)岩本裕訳

このブラフマンといわれているものは、実に人間の外にある虚空である。実に人間の外にある虚空こそ、

(Ch.III.xii.7)岩本裕訳

このブラフマンに関する秘義をこのように知る者にとって、実に太陽は昇ることなく沈むことはない。彼にとって、永遠に昼のみがある。

(Ch.III.xi.3)岩本裕訳

.「ブラフマンは実にこの一切(宇宙を意味する)である。心の平静に達した者は、それをジャラーン(意味不明な神秘的な名称)として尊崇せよ。そして、人間は実に意向から成る。人間がこの世においていかなる意向を持ったとしても、この世を去った後も、彼は同じ意向を持つ者となる。[従って、]人間は意向を定めるべきである。

(Ch.III.xiv.1)岩本裕訳

人々は彼に食物を与えた。一方の五と別の五とを加えると十になり、それがクリタである。従って、一切の方角(四方と四維と上・下の十方)にある十の食物こそクリタである。それは食物をくらうヴィラージ(十綴から成る韻律)である。これによって、一切は見られる。このように知る者、このように知る者こそ、一切を見る者となり、食物を享ける者となるのだ」と。

(Ch.IV.iii.8)岩本裕訳

今回も聞いたことがない言葉がいくつか出てきますが

要約しますと

これまでの記述では、詩の韻律についてにすぎなく、ブラーフマンについて語ることができないという主張があるとしても、私たち(ヴェーダーンタの立場)はそうではないと反論する。というのは、心(精神)をブラーフマンに専念させる仕方は、ガヤトリ・マントラなどに集中することとして教えられているからだ。そして、このような手法は他の場合にも見出されるのだから。

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