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「万物に内在するものは神であり、その性質は既に教示している」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.20)


はじめに

肉眼では目視することができない存在であるブラーフマンについて、どのようにして言い表すのか?そして、あえて言い表すならば、物理的そして肉体的な表現しかできない私たちにがわかりやすく言い表すとき、比喩という表現方法を用いることが多々あります。

この表現方法については、古代においても現代においても、難癖をつけて論争をふっかける輩はいるのでしょう。

釈迦に説法ですが、ウパニシャッドにも比喩としての神聖な表現が施されているとしてお読みくだされば幸いです。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二十節

表題7 内なる存在(内在者)

疑問:ウパニシャッドには次のように記されている。「さて、再び、太陽の中に見える彼、プルシャは黄金色をしている、彼のひげは黄金色、髪は黄金色、爪の先まですべてが黄金色である。彼の目はピンクの蓮のようであり、それ自体が猿の座のようにピンクである。彼の名はウド(上に)である。このプルシャは、つまりそのような者は、すべての罪を超越した状態にある。このように瞑想する者は、罪を超越する」(Ch.I.vi.6-8)「これは神聖な次元の瞑想である」(同上)、「その後、肉体次元の瞑想に続く。彼は、目の中に見られるプルシャ」など。(Ch.I.vii.5-8)ここで疑問が生じる。太陽と目に崇拝されるべきプルシャ(人)は、瞑想と行いの完全さによって高みに達した人間なのか、それとも永遠に存在する神なのか?どのような結論に達するのか?

反論相手:彼は転生する魂に違いない。

なぜですか?

なぜなら、ウパニシャッドは彼の姿について言及しているからだ。例えば、黄金の髭を持つような姿が、太陽の中の人物について言及されている。目の中の人物についても、「そのようなこの方の姿は、その方と同じである」(Ch.I.vii.5)に示される拡張のプロセスによって、まさにその姿を得るが、至高の主が何らかの形を持つのは当然のことではない。というのも、ウパニシャッドは「音もなく、触れることもなく、形もなく、減少しない」(Ka. I. iii. 15)と述べているからである。この結論は、テキストに「太陽の中にいる者」(Ch. I.vi.6)、「目の中にいる者」(Ch.I.vii.) という住まいの記述によって裏付けられる。いかなる支えもなく、自らの栄光の中に存在し、すべてに遍満している至高の主には、いかなる住まいも主張することはできない。また、ヴェーダには次のような文章もある。「尊者よ、彼は御自身の栄光において何の上に座しておられるのか?」(Ch.VII.xxiv.1)「彼は宇宙のように遍在であり、永遠である」(Ch.VII.xxiv.1)さらに、彼の栄光には限界があることが次の聖句で明記されている。「(太陽の中のプルシャは)太陽の上にある世界を支配し、また神々が楽しむものをも支配する」(Ch.I.vi.8)という文章では、太陽の中の人物の威厳に限界が設定され、そして、「そのような方は、目の下にある世界を支配し、また人が楽しむものをも支配する」(Ch.I.vii.6)という文章では、目の中にある人物の威厳に限界が設定されている。しかし、神の威厳に限界があるというのは合理的ではありません。なぜなら、テキストには「この方は万物の主であり、この方は万物の支配者(すなわち死神)であり、この方は万物の保護者(すなわちインドラや他の神々)であり、この方はこれらの世界(すなわちカーストや人生の段階など)が混ざり合って破壊されないようにせき止めるダムのようなものである」(Br.IV.iv.22)と何の留保もなく述べられているからです。それゆえ、太陽と目の中に住んでいるのは至高の主ではないのである。

ヴェーダンティン:そのような立場なので、私たちは次のように言います。

20節 内なる存在は神であり、その性質はすでに教示している。

ウパニシャッドがこのように「太陽の中にいるもの、目の中にいるもの」(Ch.I.vi,I.vii)と語っているプルシャとは、転生する魂ではなく、神ご自身でなければならない。

(*118)Purusa:プルシャとは、すべてに遍在する存在であり、崇拝者たちからは人格者(a Person)として見られている。この文脈における黄金とは、光でできている、すなわち自ら光り輝いている(self-effulgent/自己実現)という意味である。

なぜですか?

彼の資質が教えられているからだ。なぜなら、ここで教えられているのは神の性質だからである。このようにして、「その名はウド(上に)である」(Ch.I.vi.7)と言って太陽の中のお方の名を明らかにした後、その名の由来は、「このようなプルシャは、すべての罪の上に持ち上げられたままである」という文章の中で、罪から自由であり続けるという事実から生じることが示されている。そして、その由来が示されたその名前は、こう言って、目の中の人物に拡大される。「彼はもう一人のお方が持つのと同じ名前を持っている」(Ch. I.vii.5)あらゆる罪からの自由は、至高の自己についてのみ、「あらゆる罪を超えた自己であるもの」(Ch.VIII.vii)などと宣言されている。同様に、「彼(目の中のお方)は、Rkマントラ、Selma・マントラ、uktha(賛美歌の一種)、ヤジュル・マントラ、3つのヴェーダである」(Ch.I.vii.5)というテキストでは、ウパニシャッドは目の中のお方とRk、Selmaなどの同一性を指摘している。そして、それは至高の主の場合にのみ可能であり、すべての源であることによって、主がすべてであることが合理的である。

再び、神聖な文脈では土、火などと同じであり、物理的な文脈では言霊、生命力などと同じであるRkとSelmaのマントラから始めて、「彼のRkとSelmaのマントラは2つの肉体の関節である。これは神聖な文脈にある」(Ch.I.vi. 8)と言われています。同様に、物理的な文脈では、「彼(目の中のお方)は、太陽の中のお方と同じ2つの関節を持っている」(Ch.I.vi.8)これは、彼がすべての自己である場合にのみ適切となる。そして、「それゆえ、これらの人々がVina (lute)*で演奏するとき、彼らは彼について歌い、それゆえ彼らは繁栄する」(Ch.I.vii.6)というテキストは、人間の歌の中にさえ神が音楽として存在することを示しています。バガヴァッド・ギーターに「偉大なもの、繁栄しているもの、力強いもの、どんなものであれ、汝はわが輝きの一部の産物であることを知れ」(X.41)示されているように、神がそのようなお方として受け入れられるなら、このようなことがあり得るのだ。

Vina (lute)*訳者注:ヴィーナー(楽器の一種)

その上、ウパニシャッドで言及されている世界と欲望を支配する絶対的な力は、神を指している。ウパニシャドで黄金のひげを持つなどの形について言及されているのは神にふさわしくないという反論に対して、私たちは次のように言う。たとえ神であっても、求道者を優遇する(favouring/えこひいきする)ためにマーヤから神の意志で創造された形があるかもしれないとスムリティで宣言されている。「おお、ナーラダよ、あなたがすべての物質と特質を備えたこの姿で私を見るのは、私によって創られたマーヤである。あなたは私をこのように理解してはならない」それどころか、あらゆる性質を失った神聖な側面が語られるとき、関連するテキストは「音もなく、少なく、触ることもなく、形もなく、衰えることもない」(Ka.I.iii.15)などと続きます。

しかし、神はすべての原因であるため、崇拝のために、ある世俗的な性質を持つものとして語られることがあります。たとえば、「神はすべての(善い)行為、すべての(善い)欲望、すべての(善い)匂い、すべての(善い)味覚を持っておられる」(Ch.III.xiv.2) 同じように、金色の髭についても言及されている。住まいが言及されているのだから、神であるはずがない、という批判に対しては、たとえご自身の栄光の中におられるお方であっても、崇拝のための座についての指示はありうる。空間のように遍在しているため、神はすべてのものの中に住むことができます。その威厳に対する制限の言及は、崇拝のための肉体的および神聖な文脈にも言及している。それゆえ、神ご自身は目と太陽の中に住んでいるものとして語られるのである。

最後に

サーンキヤ哲学に「因中有果論」という “世界に現れるすべての事象は、すべて原因の中に含まれている” という考え方があります。

わかりやすい例として、植物の種はとても小さくて、一見してそれが何の種類に属するのかを判明することが専門家でない限り難しいのですが、その種の中に植物としての成長に必要なすべてが含まれていて、小さな種が成長することで想像できない花が咲いて果実が実ったりします。

「因中有果論」は、私たちが住んでいる世界のすべての事象が植物の種のように、原因という種の中から生まれてくると考えられています。

このサーンキヤ哲学の考え方をヴェーダーンタ哲学にて熟考すると、チャーンドギヤ・ウパニシャッドによれば、「太陽に内在し、目の中に内在するものがプルシャ(神様)ご自身である。転生する個我(ジヴァートマン)ではない」として、内在し遍在する神様がすべての原因であると、結果としての多種多様な異なる違いではなく、大元の共通の実在たる神様つまりブラーフマンについて熟考すべきではないか?と私たちを方向づけているのだと思えます。

すべてのウパニシャッドに精通しているわけではありませんが、ここかしこに、比喩として、物理的な肉体的な表現が見られるので、ややこしいと言えばそうなのですが…

そして、すべての原因は神様なのですが、結果として、今現在において私たちが知覚している世界は「マーヤ」と呼ばれている幻想とか夢とかという意味が神様の原因の結果として、その世界に住んでいると信じています。

まだ、シャンカラによる『ブラフマ・スートラ』の註解書は始まったばかりですが、これからどのような解説をされていくのかが楽しみですね!

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