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「ブラーフマン(神)こそが唯一の安住の地(家)である故に私たちの救済がある」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.1)


はじめに

『ブラフマ・スートラ』は、ヴェーダーンタ哲学の根本聖典であると称されておりますが、暗唱して唱えることを目的にしていること、そして、奥義書であるウパニシャッドとしての秘教性をごく短い文章で一般的にはかなりわかりにくい比喩となっています。

だからこそ、歴代最高だと称されるシャンカラ師の解説書が必須となります。

しかし、この三章からギアが上がったように難しく時間がかかりました。そして、ウパニシャッドの一部を引用しているだけではなかなか文脈の流れを汲み取ることが難しく感じられるかもしれませんが、できればウパニシャッドの原典訳を読むことも助けになるかもしれません。

ご参考までに「最後に」にて、引用されているウパニシャッドと要約をいつもより長く記載しておきました。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章一節

表題1 天、地などの住まい

1節 天、地などの安住の地(the repository)は、それ自身を表す言葉であることから(至高の自己である)。

疑問:これはウパニシャッドで次のように述べられています。「天、地、空間、心、生命力が、その他の器官(*1)とともに張り巡らされているその上の唯一無二の自己を知りなさい。そして、他のすべての話を放棄しなさい。これが不死に至るダム(橋)である」(Mu.II.ii.5)ここで、天の存在などについて言及されていることから、安住の地として何かが存在することは明らかである。この容器(または住処)が至高のブラーフマンなのか、それとも何か別のものなのかという疑問が生じる。

(*1)organs:ブラーフマンには、三界に具現化されたヴィリットが固定され、また、すべての微細な心に具現化されたヒランヤガルバが固定されている。これら二つは、それぞれ粗大な天界、そして、微細な心などへの言及によって意味されている。

反論相手:それに関しては、ブラーフマン以外の何かがこの安住の地であるに違いないという明らかな意味があります。

なぜですか?

なぜなら、ウパニシャッドには、「これは不死に通じるダムである」とあるからです。

ダム(または橋)は、この世では二つの岸につながっていることが知られているが、ウパニシャッドの「無限、岸なし」(Br.II.iv.12)という宣言の前では、ブラーフマンにはいかなる岸をも認めることはできない。もし何か他のものが安住の地として認められなければならないのであれば、スムルティでよく知られているプラダーナが認められるべきである。なぜなら、物質的な原因であるプラダーナが安住の地であることは論理的だからである。あるいは、ウパニシャッドでよく知られている空気(the air)とすることもできるし、空気は、テキストの中で「ゴータマよ、ヴァーユ(空気)はスートラ(文字通り糸)である。このスートラまたはヴァーユによって、現世と来世、そしてすべての生きとし生けるものがつなぎ合わされている」(Br.III.vii.2) あるいは、それは肉体化された魂であることもある。なぜなら、体験者であることによって、それは正当に保存されるのである、 体験者であるがゆえに、多様な享楽の世界との関係において、正当な安住の地となり得るからである。

ヴェーダンティン:このような立場から「天と地などの安住の地」と言われている。Dyubhuvarという複合語は、dyu(天)とbhu(地)によって形成され、dyu-bhu-adiは、天と地を冒頭に持つものを意味する。この文の中で、天、地、空間、心、器官などからなる宇宙は、何らかの実在の上に固定されたものとして言及されているので(Mu.II.ii.5)、それゆえ、これの安住の地は論理的にブラーフマンでなければならない。

なぜか?

「それ自体を表す言葉のため」、つまり「自己」という言葉のためである。なぜなら「自己」という言葉は、ここでは「第二のものではない唯一の自己を知れ」という表現で使われているからである(Mu.II.i.5)。そして「自己」という言葉は、至高の自己がこの言葉によって理解されるなら、非常に適切に当てはまるが、それ以外の意味である場合はそうではない。さらに、いくつかの場所では、ブラーフマンはまさにその名前によって安住の地として語られており、「愛すべき者よ、これらすべての存在は、実在をその源とし、実在をその安住の地とし、実在をその頂点とする」(Ch.Vi.viii.4)とある。さらに、この文脈の前後で、ブラーフマンはその名前で言及されています。「プルシャだけが、カルマと知識を含むすべてである。この至高の不滅のブラフマンを知る者」(Mu.II.i.10)、「前にあるものはすべて、不滅のブラーフマンだけである。ブラーフマンは右にも左にも存在する。上にも下にも、ブラーフマンだけが広がっている」(Mu.II.ii.11)

その文脈の中で、容器とその中に入っているものとの間に存在する関係を聞き、また「すべてはブラーフマンである」(Ch.III.xiv.1)における(ブラーフマンがすべてと同一であることを主張する)同格の用法から、木が枝、幹、根からなる複合体であるように、自己もまた多様であり、多様な味わいを持つのではないかという疑念が生じるかもしれない。その疑念を払拭するために、テキストは「唯一無二の自己だけを知れ」(Mu.II.ii.5)だと強調して宣言している)。表現されている考えは、自己は多様に創造された宇宙を構成する異質なものとして認識されるべきではないということである。

では、自己はどのように認識されるべきなのか?

その意味するところは、無智が作り出された宇宙を知識によって排除した後、安住の地として現れる唯一で均質な自己を知るべきだということだ。ちょうど、誰かが「デーヴァダッタが座っているものを持ってきなさい」と言われたとき、デーヴァダッタではなく、その座だけを持ってくるのと同じように、ここでは、安住の地として現れる均質な自己が、知られるべき対象として説かれている。さらに、非現実的な創造物に執着する者への非難が次のように語られている。「 ここ(ブラーフマン)に差異(違い)があるかのように見る者は、死から死へと向かう」(Ka.II.i.11)、「このすべてはブラーフマン(に他ならないの)である」(Ch.III.xiv.1)というテキストで、「すべて」と「ブラーフマン」が同格で使われているのは、宇宙(*2)を排除するためであり、(ブラーフマンにおける)異質性を証明するためではない。なぜなら、私たちは「塩の塊に内部と外部がなく、全体が純粋な塩味であるように、自己にも内部と外部がなく、全体が純粋な知性だけである」(Br.IV.v.13)という一節で均質性について聞いているからです。それゆえ、至高のブラーフマンは、天や地などの安住の地なのである。

(*2)universe:切り株が泥棒であるという誤った観念を取り除くために、誰かが「あなたの泥棒は切り株です」と言うかもしれない。この発言は泥棒の存在を否定するものであり、泥棒と切り株の同一性を立証するものではない。ですから、この場合、ブラーフマンと被造物が等しく真実であることを暗示するものではありません。

ウパニシャッドにダムの記述があり、ダムが堤防と関連している事実から、ブラーフマン以外の何かが天と地の安住の地であるはずだという反論に対しては、こう答える。ダムに関するテキストによって、説明されようとしている唯一のポイントは、一緒に保持する(または堰き止める)という事実であり、堤防の所有ではない。 この世界のダムは土と材木でできているから、ここで言及されているダムも同じように構築されているということにはならない。ダムという言葉自体が(語源的には)単に一緒に保持するだけを意味すし、堤防などの所有ではない。というのも、setu(ダム)という語は、貯水する(水が流れ出るのを防ぐ)という意味の語根siñに由来するからである。

他の誰かが言う:「自己だけを知りなさい」(Mu.II.ii.5)というテキストにある自己の知識と、「他のすべての話を捨てなさい」(同上)というテキストにある言葉を捨てることは、ここでは「これが不死に至るダムである」というテキストによっても宣言されている。なぜなら、これら 二つは不死に至る手段(橋)を構成するからです。しかし、天と地の安住の地としてのブラーフマンは語られていない。

ヴェーダンティン:その仮定に基づいて出された反論、すなわち、ダムに関するテキストが天と地の安住の地としてのブラーフマン以外の何かを明らかにしているという趣旨の反論は、非論理的です。

最後に

今回の第一篇第三章一節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』、『ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

その中の天と地、そして気界とが、すべての生気をともなった意思と共に織り込まれているもの、それだけが唯一の真我(アートマン)だと悟れ。これ以外の言葉を捨て去れ。この真我こそ不死の境地との間に架かる橋である。

(Mu.II.ii.5)

ヤージナヴァルキァ師が言った。「ゴータマ師よ、(宇宙)生気(ヴァーユ、ヒランヤガルバ)こそが(すべてをつなぐ)経線(スートラ)である。ゴータマ師よ、生気(ヴァーユ)というこの経線によって、この世とあの世とすべての生類がつながれているのだ。だからゴータマ師よ、世間では死人に対して“その者の肢体は解け散った”というのである。それというのも生気という経線によって、それらの肢体がつながれているからである」...

(Br.III.vii.2)

...これらすべての生きものは『存在しているもの』を根とし、居所とし、基礎としている。...

(Ch.Vi.viii.4)

その根は水より他の何処にあろう。まさに、そのように、愛児よ、芽である食物によって、根である水を尋ね求めよ。愛児よ、芽である水によって、根である熱を尋ね求めよ。愛児よ、芽である熱によって、根である有を尋ね求めよ。愛児よ、これら一切の生類は有を根とし、有を休息所とし、有を拠りどころとする。

(Ch.Vi.viii.4)岩本裕訳

(Ka.II.i.11)→おそらく引用句の誤り

「ブラフマンは実にこの一切(宇宙を意味する)である。心の平静に達した者は、それをジャラーン(意味不明な神秘的な名称)として尊崇せよ。そして、人間は実に意向から成る。人間がこの世においていかなる意向を持ったとしても、この世を去った後も、彼は同じ意向を持つ者となる。[従って、]人間は意向を定めるべきである。

(Ch.III.xiv.1)岩本裕訳

塩の塊には内も外もなくすべて一味の味だけであるように、まさに真我(アートマン)にも内も外もなくすべて智慧(プラジュナ)だけである。真我は諸物質元素の中から個々のものとして発現し、個性と共に滅してゆく。個なる存在から離れた後、真我には個なる意識はない。以上が私の教えである、とヤージナヴァルキァ師は言いました。

(Br.IV.v.13)

今回の一節を要約すると

表題1 天上界、地上界などの安住の地はブラーフマンなり

天上界、地上界などの安住の地は、天啓聖典中の具体的な言葉で『真我』という言葉が使われていることからしても、ブラーフマンだと論理づけることができる。

『ブラフマ・スートラ』において、決まり文句のウパニシャッドに述べられている、つまり、古来よりの聖者方が感性にて知り得た智慧なのだから間違いはないという論理となります。

『ムンダカ・ウパニシャッド』においては、大昔の人たちにとっては、太陽系とか銀河がどのようであるということは知り得なかったので、天そして地、その間の気界というものがすべての生気(プラーナ)をともなった意識の働きと共に織り込まれているもの、それだけが真我(アートマン=至高の自己)であると述べている。

ここで、アートマン=全宇宙だとするところから『ブラフマ・スートラ』にて徹頭徹尾一貫しているすべてがブラーフマンであるのだから、それ以外は無いのだからそれ以外の言葉は捨て去るということになっています。

そして、このアートマンこそが不死の境地との間に架かる橋であり、常に天も地も気界も移り変わりゆくけれども、それらを支えているアートマンすなわちブラーフマンが実在するのだから、そこに私たちの意識が差異ではなく共通意識として同一化することで、ひとつとしてそこに心が留まることで私たちも不死となる。つまり、有限の世界を超えて絶対に溶け込むのだとなるわけです。

そして、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』においては、これらすべての生きものは「存在しているもの」を根とし、つまり、植物のような根っことして、または、安住の居所として、基礎として存在している、もしくは存在そのものであると述べている。

たとえば、小さな子供の頃、「お前の母ちゃんデベソ」となじられて傷つけられるというのは、肉体としての自己存在たる出自である母親をけなされたことで心にダメージを負うこととなるのですが、スピリットとしての至高の自己である真我としてのブラーフマン(神)を自らの根として源として基礎として、つまり、自分の出自として認識していないならば、言葉に言い表すことができないほどに心はダメージを負っているとも言えます。

ここでのインド哲学と言いますか、インドの考え方のユニークさが垣間見れるのですが、存在というものが救済につながるということがあります。要するに、「自己存在として私たちがなぜここで生きているのか?」、「なぜ自分は存在しているのか?」、「なぜ大自然は存在していているのか?」、「なぜ私はここでこのようなことをしているのか?」などなど、このようなときに、この「存在」というものを存在せしめているもの、この『ウパニシャッド』で言うところの天上界や地上界などにおいて、安住の居所として基礎としての存在そのものへと私たちの心が行き着くことで私たちは救済されるという論理になっていることが推論できます。

『ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド』においては、塩の塊がその内も外もなく味の塊そのものであるのと同じく、この真我(アートマン)も内も外もなく智慧(プラジュナ)の塊である、と述べられています。

この智慧の塊である「智慧」とは、ごく簡単に言うならば、「あの人は智慧が働くね」などのような場合、智慧が働くとか働かないというのは、それほどにいろいろなことが気づけるか気づけないか、つまり、意識の働きが研ぎ澄まされているのかどうかということになりますが、その働きが「パーフェクトに働いている」というのが智慧であるとも言えます。

「気づきが悪い」とか「悟りが悪い」というのは、認識という意識の働きとそれを理解する悟性の働きが一緒になっていないとも言えるのですが、ここでの「プラジュナの塊」となると、「観るもの」、「観られるもの」そして「観ること」という三つの分裂した意識状態のままならば、観てる対象としてのお金とか食べ物とかステイタスなどと結びついてしまう、つまり、心が分離状態(私が居てあなたが居る)になるので救われることがずっとないわけです。

このような意識状態だと、もっとお金が欲しい、もっと食べ物が欲しい、もっとステイタスが欲しいなどと、混乱に混乱を重ねるような存在として自他共に認識し理解するならば、私たちにとって悲劇となり、「観られるもの」としての対象を追い求める限りにおいて、真の自らの根源には行き着かないことを教えてくださっていると推論できます。

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