「ジャーバラ派の信奉者たちは頭頂と顎の間にてブラーフマンを瞑想の対象とする」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.32)
はじめに
今回引用されている『ジャーバラ・ウパニシャッド』は、Jabalopanisadとも呼ばれていてマイナーなウパニシャッドのようです。紀元前 300 年以前、おそらく紀元前 3 世紀頃に書かれた古代のテキストとなり、精神的な知識のみを追求するために世俗的な生活を放棄するという主題を論じた最古のウパニシャッドの 1 つだと言われています。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章三十二節
32節 そして彼ら(ジャーバラ派の信奉者たち)は、この場所(頭と顎の間)でこのお方(つまり神)を記憶に留める(つまり披見する/read of)。
そして、ジャーバラ派の信奉者たちは、このお方、すなわち至高の主を、この場所、すなわち頭頂と顎の間に心に留めておく(remember)。「(ヤージュナヴァルキヤ)“この無限で不可解な自己であるものは、束縛を受けているこの者(すなわち個別の存在)の上に座している(すなわち、瞑想しなければならない)」(アトリ)「束縛を受けている者はどこに座っているのか?」「彼はヴァーラナとナシの間に確立されている」「どれがヴァーラナで、どれがナシなのか?”」(ジャーバラ2)。このテキストでは、再び、このお方(つまり眉毛)と鼻は、感覚によって犯されたすべての罪を払うもの(ヴァラヤティ)としてのヴァラナと、感覚によって犯されたすべての罪を滅ぼすもの(ナサヤティ)としてのナシであるという語源から、ヴァラナとナシであることが確認されている。ジャーバラにはさらに「“このお方(つまり個別の存在)の座はどれになるのか?” “眉と鼻の間のつながりを構成するものが、天と至高の場所(ブラーフマン*20)の間のつながりとなる”」(同書)したがって、空間的な制限に関するテキストは、至高の自己に関して適切である。
(*20)Brahman:この場所は、両者をつなぐものとして瞑想されるべきだ。bhruvoh prinasyacaをbhruvorghranasyacaの代わりに読む者もいるが、prinaはghrina(鼻)を意味する。
また、テキスト中のabbivimanaという用語は、最奥なる自己を示すために使われているが、これは、すべての存在が最奥なる自己として直接知っているもの(abhivimiyate)という派生的な意味、あるいは、最奥なるものとして直接到達するもの(abhigata)であると同時に、いかなる測定(vimana)からも自由であるもの、あるいは、全宇宙を多様に創造するもの(abhivimimite)であり、それはすべての源であるという意味で使われている。それゆえ、ヴァイシュヴァナーラは至高の自己でなければならないことが証明されている。
最後に
今回の三十二節を要約すると
さらに、ジャーバラ派の信奉者たちによれば、ブラーフマンは頭頂と顎の間で瞑想の対象になると言われているからだ。
この「頭頂と顎の間」というのは、理智鞘(ヴィジュナーナマヤ・コーシャ)のブラフマランドラでブラーフマンを瞑想の対象として、思念するもしくは感じるというラージャ・ヨーガにおいての瞑想の行法に関する論理的説明となっています。
いままで、長々とあーでもないこーでもないとまわりくどく、インドの論理で説明されてきたのですが、つまり、心臓内の小さな空間とかの空間において限定された表現でブラーフマンを語ってはいるけれど、そこだけの大きさではないとか、消化の火という胃の中においてのみ働いているだけではないと述べていると類推できます。