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「サ-ンキヤが説くプラダーナ(根本原質)は真我ではない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.8)
はじめに
今回のシャンカラ註解は分かりにくいかもしれません。
私の翻訳がまずいというのもありますが…
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章八節
8節 (プラダーナが間接的にさえ語られていない)なぜなら、その拒絶についての言及がその後にないからであり、そして、(それは冒頭の主張に反するからである)。/プラダーナ(根本原質)については間接的にしろ語られたことがない。それというのも、その存在を結果として否定する記述がないからである。それに最初における主張に反するからである。
仮に、プラダーナが自己ではないが、ここで「実在(Existence)」という言葉によって意味され、「それこそが自己である」(Ch. VI. vii. 8)や「それが汝である」(同上)というテキストで教えられているとすると、ウパニシャッド(または教師)は、根本的な自己を教えようと努め、プラダーナは拒絶されるべきであると後に語るべきであった。
そうすれば、その(以前の)教えを聞いた後、求道者は(真の)自己について悟りを得ていないために、そのプラダーナを自己として執着することがなくなるからである。これは次のように説明できる。(小さな星)アルンダティーを指し示そうとする人が、まず近くにある大きな星を間接的にアルンダティーそのものとして示す。そして、それを捨て、その後にアルンダティーそのものを示す。同様に(ここでも)、テキストは 「これは自己ではない」と言うべきだった。しかし、そうはなっていない。むしろ、(チャーンドーギャ・ウパニシャッドの)第六章は、存在の知識にしがみつくことによって終わっていることがわかる。
(格言の中の)「そして」という言葉は、プラダーナの仮定が、最初に始めた主張と矛盾しているという追加の理由を指し示すために使われている。たとえ、その後に否定があったとしても、それによって最初の前提に矛盾が生じる可能性(contingency/偶然性)がある。その前提とは、すべてのものは原因を知ることでわかるようになるというものである。会話の冒頭で私たちはこう聞いたからだ。
「(ゴータマが言う)“シュヴェータケートゥよ、あなたは、聞こえないものが聞こえるようになり、考えないものが考えるようになり、瞑想されないものが瞑想されるようになる(ニディディヤーサナ)ような(教えのみから知られる)実在について尋ねましたか?”
(シュヴェータケートゥ)“どのようにして教えだけでその実在がわかるのでしょうか?”
“愛児よ、粘土のかたまりを知れば、粘土でできたすべてのものがわかるように、すべての変化は言葉を起源とし、名称においてのみ存在し、粘土だけが現実である(Ch.VI.i.3)、...したがって、愛児よ、この実在は教えによって知られる”」(Ch. VI. i. 2-6)
さらに、すべての経験対象(すなわち、楽しみと苦しみ)の原因である、いわゆる存在であるプラダーナが、受け入れ可能なものとしても、拒否可能なものとして知られていても、経験者(すなわち、主体)の範疇に入る実在は、依然として未知(*102)のままである。というのも、クラスとしての(as a class)経験する主体は、プラダーナを変化させたものではないからである。それゆえ、プラダーナは「実在」という言葉では言及されない。
(*102)unknown: そうすれば、「一つを知ることですべてを知る」という前提が覆されることになる。
プラダーナが「実在」という言葉によって言及されていないことを示すさらなる理由があるだろうか?
最後に
1節 シュヴェータケートゥ・アールネーヤという人がいた。彼の父(ウッダーラカ・アールニ)があるとき彼に言った。
「シュヴェータケートゥよ。バラモンとしての修行の生活にはいれ。愛児よ、われわれの一族の者には、学習することなく、ただ名だけのバラモンであるというような者はいない」と。
2節 彼は十二年の間師匠に就き、二十四歳ですべてのヴェーダを学習し、得意になり、みずから学識があると自惚れて、意気揚々説いて帰ってきた。
3節 「シュヴェータケートゥよ、愛児よ、おまえは得意になって、みずから学識があると自惚れ、意気揚々としている。では、聞かないことが聞いたことになり、思考しないことが思考したものとなり、認識しないものが認識したものとなるような教義を訊ねたか」と。
4節 子「尊き父よ、一体その教義とはどのようなものなのですか」と。
父「愛児よ、一個の土塊によって土から成る一切のものが認識されるように、変異とは言語による把握である(「語弊上の区別があるのみ」の意」。土という名称こそ真実なのである。
5節 愛児よ、一個の銅製の装身具によって一切の銅製品が認識されるように、変異とは言語による把握である。銅という名称こそ真実なのである。
6節 愛児よ、一個の爪切り鋏によって一切の鉄製品が認識されるように、変異とは言語による把握である。鉄という名称こそ真実なのである。愛児よ、かの教義とはこのようであるのだ」と。
7節 子「わたくしの先生たちは必ずやそれを知らなかったに相違ない。もし知っておられたならば、どうして私に語らないでいましょう。尊き父上は、なにとぞわたくしにそれを教えてください」と。
父「愛児よ、よろしい」
と、彼(ウッダーラカ・アールニ)は言った。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』を学習するヨーガ行者たちは、ほぼすべてのウパニシャッド聖典群を丸暗記しているので、ほんの少し引用しただけでも、「あーあそこか」というように引用箇所と言わんとすることを把握しているのだが
私たちは、そんなことはないので、必要ならばわかる限り全文を載せるようにします。
私の経験において、ヨーガの師は、訊ねられたことのみ答えるという教育スタイル(伝統的な教授法)なので、たとえ師が何を聴きたいのかを察していても余計なことは言わない。すなわち、日本の伝統芸の技を伝承する師と弟子のような、一を聞いたら百を知れということになる。
だからこそ、父は、「そのような教義を訊ねたか?」と子に訊ねているのだが、子は「わたくしの先生たちは必ずやそれを知らなかったに相違ない」と答えているので、はっきり言ってアホ息子だと言える。
しかし、そこは親だから子に教えているシーンだと私は解釈しています。
なので、「訊ねること」と「答えられること」という聴聞も伝統的な学習法としては必須なのだと思います。聴聞したことを熟考することで次の質問が生まれますし、その答えが深堀する熟考の材料となるからです。
今回の節で先生が解説したことをかいつまみますと
人間五蔵説などの各々の鞘、たとえば、食物鞘とか生気鞘とか理智鞘・歓喜鞘などはプラダーナにつけられた名前であってアートマン(真我)ではない。もちろん、チャクラもそうですし、眉間奥に瞑想時に霊視するブラフマランドラの中の各種知覚器官も、微細なブッディも、スシュムナ管のクンダリーニも、すべてがアートマンではないということになります。
とおっしゃっておられましたので、今になって、わかることなのですが、瞑想において、さまざまな名称のプラダーナを観られるものという対象として「これではない、これではない」とタマネギの皮を剥いでいくように、という教えなのだと思います。