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「心臓内の小さな空間を個我だと主張するとき真我本来の性質を語っているにすぎない」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.19)
はじめに
本来は、引用されているウパニシャッド聖典について、すべて暗記してからこのシャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』に取り組むというのが古来のインドからの保守本流の伝統なのですが
もともと、大阪に住む次女のためにやり始めたことなので、馬鹿親ゆえに手間暇かけて分かりやすいようにと頑張っております。(笑)
『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』の引用の中で、師であるプラジャーパティと弟子たる神々そして鬼神たちとの質疑応答が今節のメインとなるのですが、私の先生との質疑応答にて質問しその答えに対してその場で納得したのに帰りの車の中で再び疑問が浮かび上がってくるのを懐かしく思い出したものでした。
本文中に、「肉体から出現し」としていますが、直訳すると「肉体から起き上がった」となるのですが、意味としては「真我」が出現したとして訳しています。他には、「覚醒した」や「顕現した」でも良いかもしれません。個我(すなわち個別の魂)と真我との識別をここでシャンカラ師は表現しているのだと思います。(本当は既に覚醒し顕現はしているのですが…)
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章十九節
19節 もし、小さな空間が個別の魂であると主張される場合、それは(同じ章で)その後の言及に基づいているため、私たちはこう言います。むしろ、そこでは魂自体の啓示された(つまり真我の)性質について語られているのです。
反論相手:ブラーフマン以外の何者かについての言及から生じた個別の魂についての仮定は、不可能であるという理由で却下されました。ここでもまた、「その後の言及の強さによって」、つまりプラジャーパティの発言の強さによって、個別の魂についてのまさにその仮定が、甘露の散布による死者の蘇生のように復活しているのである。まさにその文脈(Ch.VIII)の中で、「罪から自由である自己」(Ch.VIII.vii.1)で述べられているように、罪からの自由などの属性を持つ自己を探求し、知るべきであるという主張から始まり、そして、「眼に見えるこのプルシャが自己である」 (Ch.VIII.vii.4)と言うことによって、眼に座っている観察者の個別の魂が自己であると指摘される。そして、その個別の魂について何度も何度もほのめかした後、「私は、この魂を何度もあなたに説明しよう」(Ch.VIII.ix.3-8)と言い、個別の魂は様々な条件下で(プラジャーパティからインドラへ)テキストにて説明される。「夢の中で動き回るものであり、(過去の傾向によって思い起こされた対象によって)崇拝されるものが自己である」(Ch.VIII.x.1)、「すべての感覚を取り去り、それゆえ完全に静寂になり、夢(*16)を見なくて眠るようなその時、それが自己(*17)である」(Ch.VIII.xi.1)
(*16)dreams:宇宙を単なる無智におとしめる。
(*17)Self:原因体の中にあるPrajna(個別の魂)は、自らの意識を通してそれ(Prajna)を観察している。それは、他者に存在と感覚を与えることによって観察者となるが、無智が依然として続いているために自由ではない。
なぜなら、その個別の魂については、「この者は不死であり、恐れを知らず、この者はブラーフマンである」(同上)に、罪からの自由などの属性が示されているからだ。また、睡眠状態における何らかの欠点を(インドラが)知覚した後、「残念なことに、この(眠っている)人は、(眠っている間)今自分自身が“私はこれである”と確かに知っているわけではないし、それらの存在を認識していない!(しかし、彼はいわば消滅を果たし、私はここに何も望ましいものを見出せない)」(同上)と述べられているように、(応答した)プラジャーパティはまず、「私はまさにこのことをあなたに繰り返し説明しよう。これ以外のことは何も説明しない」(Ch.VIII.xi.3)と述べ、それから、プラジャーパティは、次に肉体との関わりのすべてを非難し、最後に「このサンプラサーダ(完全に穏やかなもの)は、肉体から出現し、至高の光を悟り、自らの真の性質に到達する。それは最高のプルシャである」(Ch.VIII.xii.3)と言って、ここでプラジャーパティは、肉体から出現した個別の魂そのものが最高のプルシャであることを示している。それゆえ、至高の主の属性は個別の存在において可能である。したがって、個別の魂は「その内部にある小さな空間」というテキストで語られている。
ヴェーダンティン:もし誰かがこのように反論する人がいたら、その人にこう言うべきです。(そこでさえ)「個別の魂は、むしろそれ自身の明らかにされた性質において語られている」。この "むしろ "という言葉は、反論者を否定するために使われており、その後に続くテキストの力を借りても、ここでは個別の魂を仮定することは不可能であることを暗示している。
なぜか?
なぜなら、そこでも、個別の魂はその真に顕現された性質において示されることを意図しているからである。「個別の魂がそれ自身の顕現された性質において」とは、真の性質が顕現した魂を意味し、この「個別の魂」という用語は、テキストにおける以前の(慣習的な)使用法の継続として、悟りを開いた後も保持されている。伝えられるその意味はこうである。「眼」という言葉によって示唆される観察者は、「眼の中にいるもの」(Ch,VIII.vii.4)というテキストによって最初に指摘される。次にブラーフマナにおいて、皿(*18)の中の水の類推を提示する(Ch.VIII.viii)で、まさにこの観察者が肉体との同一視する概念から解放される。そして、説明のために、「私はこのことをさらにあなたに説明しよう」 (Ch.VIII.ix.3)という言葉によって、まさにこのことが繰り返し言及される。そして、夢と深い眠りの状態を提示した後、「至高の光を悟り、自らの真の性質に到達する」(Ch.VIII.xii.3)と言われ、この個別の魂は、その真の性質であるブラーフマンについて説明されるが、個人としての性質においては説明されない。ウパニシャッドで悟るべきものとして言及されている至高の光とは、至高のブラーフマンのことである。
(*18)plate:プラジャーパティはインドラとヴィローチャナに言った。「あなた方は、水で満たされた皿の中に映った自分自身を見てから、あなた方の自己について理解できないことを何でも私に尋ねさい」これが終わると、インドラは、映し出されたものはそれ自体が成長と衰退の対象であり、それは、映し出されたそのものが肉体の変化を示していることから明らかであると主張した。したがって、肉体が自己であり得ない。プラジャーパティはこれを確認した。
ブラーフマンは、罪からの自由などの特徴があり、それが個別の存在の真の性質であり、 「それは汝である」(Ch.VI.viii-xvi)のようなテキストに示されているが、しかし、限定的な付属語によって飛び起こされる他の性質(そのまま)はそうではない。木の切り株に重ね合わされた人間という誤った考えを排除するように、二元性の世界として表現される無智を根絶せず、「我はブラーフマンなり」という自己、つまり変化がなく永遠であり、本質的に目撃者である自己を知らない限り、個人の個性は存続する。しかし、個人が、ウパニシャッドによって、肉体、感覚、心、知性の集合体から覚醒させられると、「あなたは肉体、感覚、および知性の集合体ではなく、輪廻する存在でもない。それではあなたは何なのか?」と理解し、「真理であるもの、すなわち純粋な意識の性質を持つ自己、それこそが汝である」と悟ったならば、そのとき彼は、変化せず、永遠であり、生まれながらにして観察者である自己を悟り、まさにその個人は、肉体やその他のものとの同一視を超越してそのもの、つまり、不変で永遠であり本来の観察者そのものとなる。このことは、ウパニシャッドのテキスト「至高のブラーフマンを知る者は、真にブラーフマンとなる」(Mu.III.ii.9)にて宣言されている。そして、それこそが魂の至高の性質であり、肉体を超越した後にその本質的な達成(essential stature)に到達するのである。
反論相手:不変で永遠である実在にとって、それ自体で真の性質に到達することがどうして可能なのでしょうか?金やその他のものの場合、異質なものとの接触によってその真の性質が覆い隠されているために、明確な特徴が顕在化しないままに、塩を加えることによって精製され、それら自身の性質に到達することができるかもしれない。同様に、昼間に光が弱くなる星々の場合、夜になってその弱める要因が取り除かれれば、その本来の性質に到達できることがあります。しかし、意識そのものである永遠の光の場合は、何ものにも圧倒されることはない。空間と同じように、意識は何ものとも接触することができないからであり、これは一般的な経験と矛盾するからである。個別の魂の性質は、見ること、聞くこと、考えること、知ることから成立している。そして、それは、肉体から出現していない魂にとっても、明白な事実として常に証明されている。なぜなら、すべての存在は、見ること、聞くこと、考えること、知ることによってこの世界で生き、行動しているからです。そうでなければ、生命は止まってしまう。もしその性質が、肉体を超越した魂によってのみ達成されるのであれば、先に述べた行動は矛盾することになる。それゆえ、肉体から出現するのことは何を意味し、真の性質の達成は何から成り立つのだろうか?
ヴェーダンティン:答えして私たちはこう言います。識別する智識の夜明け以前は、個別の魂の意識という性質は、見ることなどを通して表現され、肉体、感覚、心、知性、感覚対象、悲しみや幸福と、いわば混ざり合ったままである。ちょうど、識別の知覚以前は、水晶の真の性質を構成する透明な白さは、赤や青やその他の条件付け要因と識別ができないままであるのと同様である。しかし、智識という有効な手段によって識別が知覚された後では、後者の状態の水晶は、白さと透明さという真の性質を獲得すると言われているが、それはそれ以前からまさにそうであった。同様に、個別の魂の場合も、肉体などの限定的な付属物と識別できないまま混ざり合っていて、肉体(意識)からの上昇を構成するウパニシャッドからの識別的な智識が湧き上がる。そして、その識別的知識の結果は、真の性質に到達することであり、すなわち絶対的な自己としてのその性質を悟ることである。このように、自己の無肉体性または有肉体性は、識別または無識別の事実から尊重される。「肉体の中にありながら肉体がない」(Ka.I.ii.22)というマントラ、および「クンティの息子よ、至高の自己は、肉体に存在しながら行為に影響を受けることがない」(Gita,XIII.31)というスムティによって述べられており、これらは、有肉体性または無肉体性といった識別がないことに言及しているのだ。
したがって、個別の魂は、識別力のある智識の欠如のせいで、未顕現な状態を継続しているが、識別力のある智識が目覚めたときに、その真の性質が顕現すると言われている。なぜなら、他のいかなる種類の顕現または未顕現も、自分自身の性質が自分自身に内在している理由だけで、自らの性質とすることは不可能だからである。このように、個別の魂と至高の主との違いは、無智だけから生じるのであって、それら自体から生じるのではない。なぜなら、どちらも空間のように執着(attachment:付属物)など(また、部分がないことなどと同じように)から自由であるからです。
反論相手:このことは、またどうやって知るのですか?
ヴェーダンティン:プラジャーパティは最初に「眼に見える存在」 (Ch.VIII.vii.4)と教え、次に「これは不滅で恐れを知らない。これがブラーフマンである」(同上)と言っているからです。観察者として考えられている、よく知られた眼の中の予言者が、不滅で恐れを知らぬものとして特徴づけられるブラーフマンともし異なっていたならば、その予言者は恐れを知らぬ不滅のブラーフマンと同列に置かれることはなかっただろう。また、眼の中に映る映像は、ここでは眼という言葉によって示されていない。というのも、それはプラジャーパティ側の前言撤回につながるからである。同様に、第二段階でも、プラジャーパティはインドラに、「夢の中で動き回り、崇拝(女性や他の人々の)を受けているこのものこそ、自己である」 (Ch.VIII.x.1)と言った。
ここでもまた、第一段階で指摘された眼の中の存在である観察者以外には何も示されていない。なぜなら、この導入は「まさにこのことをもう一度説明しよう」(Ch.VIII.ix.3)という言葉でなされているからである。さらに、目を覚ました男がこう話す。「私は今日、夢の中で象を見た。今は見ていない」ここで彼が否定しているのは、彼が見たものであるが、一方で、彼はまさにその観察者の正体を次のように認識している。「夢を見た私自身が、今、目覚めている状態のものを見ている」同様に第三段階において、インドラは「この者は(眠りの中で)今、確かに自分自身を“私はこれでそしてこれである”と知っているわけではなく、これらの存在を知っているわけでもない」(Ch.VIII.xi.2)と述べている。ここでは、睡眠状態において特定の認識が欠如していることが示されているが、観察者は否定されていない。インドラの「そこでは、いわば消滅する」(Ch.VIII.xi.1)という言明についても、これも特定の認識が消滅することに関して述べられているのであって、認識者の消滅という意味では述べられていない。別のウパニシャッドでは、「認識者の認識機能は不滅であるため、失われることはありません。(しかし、認識者が認識できるものから分離した第二のものは存在しません)」(Br.IV.iii.30)と宣言している。同様に、第四段階において、プラジャーパティは「まさにこれと異なるものは何一つないことをさらに説明しよう」(Ch.VIII.xi.3)から始まり、「マガヴァン(インドラのこと)、この肉体は確かに死すべきものである」(Ch.VIII.xii.1)などと付け加え、この詳細な説明によって、肉体のような条件付け要因とのいかなる関係をも否定する。そして次に、「それはそれ自身の性質に到達する」(Ch.VIII.xii.2)と述べて、プラジャーパティは、ブラーフマンとの同一性において、サンプラサーダ(眠りの中で完全に静穏なもの)と呼ばれる個別の存在を明らかにし、それによって個別の魂が不滅であり、本質的に恐れを知らない至高のブラーフマン以外の何かであることを示すことはありません。
しかし、ある人たちは、もし授けようとする考えが至高の自己に関するものであるならば、「まさにこのことをもう一度説明しよう」(Ch.VIII.ix.3)というテキストに関連して、個別の魂を引きずり込むのは不適切だと考える者もいる。そのため、彼らはその文の意味を次のように考えています。「私は、まさにこの(this)もの、すなわち、この話題の冒頭で指摘された自己と(Ch.VIII.vii.1)そして、罪などからの自由という特徴を持っているものについてもう一度(over again)説明しよう」 もし、彼らの解釈が受け入れられるなら、自然に近い何かに関連するウパニシャッドの言葉の「この(this)」は、離れて関係するものとなり、「もう一度(over again)」という言葉は無意味となる。なぜなら、前の段階で述べられたことは、後の段階ではもはや繰り返されないからです。また、もしプラジャーパティが「私はあなたにまさにこのことについて説明しよう」という約束から始めて、その後、第 四段階より前の各段階で、新しい実在(つまり夢や睡眠中の魂など)をすべての段階で説明するのであれば、彼は言い逃れの負債(the charge of prevarication)で非難されることになるだろう。したがって(正しい解釈はこうだ)無智などによって呼び出され、行為者(agentship)、体験者(experiencership)、愛、憎しみなどの多くの欠陥に汚染され、多くの悪に支配された個別の存在の非現実的な側面が取り除かれた後、反対の側面、つまり、罪などからの自由という特徴を持つ至高の主である現実が明らかになり、ちょうど、蛇など(誤って重ねられたもの)を排除した後に縄などが明らかにされるのと同じです。
他にも教義主義者やヴェーダンティンの中にも、被造物の側面が実在すると考える者がいる。このサーリラカのテキスト(つまり、肉体化された魂について論じた本)は、自己の一体性の完全な実現に反対するすべてのものに対する抗議として始められた。このサーリラカのテキストのテーマはこうだ。至高の主は唯一不変で永遠の絶対的な意識であるが、魔術師のように、彼はマーヤを通して、別名アヴィディヤー(無智)(*19)を通して多様に現れる。これ以外に、意識そのものは存在しません。
(*19)ignorance:ラトナプラバーはマーヤとアヴィディヤーを区別していないが、この二つの用語が並置されていることは、マーヤの二つの力(覆う力と乱す力)の違いを意味していることは認められ、この事実から異なる用語を生んでいるのかもしれない。しかし、マーヤは宇宙的な無智を指し、アヴィディヤーは個人的な無智を指すと主張する人もいる。
至高の主に関するテキストにおける個別の魂が想定され、それに続く格言家の下での格言による否定については、「それが示唆されているのだから、もう一つは小さな空間であるべきではないか?いや、それは不可能である」(B.S.Ⅰ.iii.18)などという格言の下で否定されているが、そこでの彼の意図はこうである。至高の自己と個別の魂の違いを肯定するとき、彼の考えはこうである。「空の表面や汚れが空想されるように、個別の魂の考えは、それが至高の自己と対立するものであるにもかかわらず、本質的に永遠に純粋で、知的で、自由で、永遠で、不変で、一つであり、無執着である、至高の自己の上に重ねられている。私は後でその重ね合わせを取り除き、そして、論理に裏付けられたテキストの助けを借りて、あらゆる二元性の理論を打ち砕き、それから自己の統一を確立するつもりだ」しかし、彼は、無智によって空想される個人の違いという一般的な概念を単に言い直しただけで、個別の魂と至高の自己との違いを立証することはしない。このような手順を採用されたとき、本能的な行為者と体験者のこの繰り返しに基づく儀式と義務に関する命令が矛盾しないことを示すだろう。しかし、格言の下で、「しかし、ヴァーマデーヴァの場合のように、聖典と一致するヴィジョンの観点から教えが導かれる」(B.S.Ⅰ.Ⅰ.30)などという格言の下で、聖典の趣旨について到達すべき結論は、ただ自己の統一であることを示す。また、儀式や義務に関する命令との矛盾が、悟りを開いた、そして、悟っていない人たち(*20)の区別を参照することによって、どのように解決されるべきかを私たちによって示された。
(*20)men:儀式などは、まだ無智の中で手探りをしている、悟りを開いていない人たちのためのものだ。
最後に
今回の第一篇第三章十八節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『ムンダカ・ウパニシャッド』、『カタ・ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギータ』、『ブラリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』、『ブラフマ・スートラ』を以下にてご参考ください。
「悪を滅し、老いることなく、死ぬことなく、悲しむことなく、飢えることなく、渇くことなく、その欲望が真実であり、その意図が真実である真我(アートマン)を人は探求すべきであり、認識することを欲するべきである。この真我(アートマン)を見出し、認識する人はすべての世界、すべての願望を成就する」と、プラジャパティは言った。
この言葉を神々(デーヴァ)と鬼神たち(アシュラ)が聞き及んだ。「諸君、この真我(アートマン)を見つけ出せば、あらゆる世界が我々のものになり、すべての願望が成就されるのだから」と言い合いながら、神々からはインドラ神(帝釈天)が、鬼神たちからはヴィローチャナが進み出た。
ヴェーダ(神智)を学ぶためには彼らは32年間、プラジャーパティのもとに住んでいた。...
プラジャーパティは両名に向かって、「眼の裡に見られる人物(プルシャ)がある。これが真我(アートマン)である」と説き、さらに、「これは不滅なるもの、恐れなきもの、即ちブラーフマンである」と説いた。「しかし、尊師様、その人物とは水中に見られるものと、鏡中に見られるものと、どちらでしょうか?」(と両名が問うた)
「水を満たした水盤の中に映った真我(アートマン)を観察し、自分自身について分からぬことがあれば、私に言いなさい」(と、プラジャーパティが言った)
両名は水に満たした水盤の中を観察した。
「何が見えるか?」とプラジャーパティが尋ねた。
「私たちの全身(アートマン)が毛髪から爪の先に至るまでに映っているのが見えます」(と両名が答えた)
「今度は立派な飾りを身につけて、きれいな服を着て、身なりを整えて水盤の中を観察してみなさい」(と、プラジャーパティが言った)
両名は、立派な飾りを身につけて、きれいな服を着て、身なりを整えて水盤の中を観察してみた。
「何が見えるか?」(とプラジャーパティが尋ねた)
「尊師様、今私たちは立派な飾りを身につけて、きれいな服を着て、身なりを整えているのと同様に、この水盤の中の二人も、立派な飾りを身につけて、きれいな服を着て、身なりを整えています」(と両名が答えた)
「それが真我(アートマン)である。これこそ不死なるものであり、恐れを知らぬものであり、ブラーフマンである」(と、プラジャーパティが言った)
この言葉を聞いて、両名は満足して師の許を辞した。
二人を見送りながらプラジャーパティは「あの二人の者は真我(アートマン)も認識せず、見いだしもせずに去っていった。こんな教えをウパニシャッド(奥義)として奉ずれば、神々であれ鬼神たちであれいずれかの側が破滅してしまうだろう」(と、プラジャーパティは心の中で思った)
それでもアシュラたちは心から満足して鬼神たちの許へと帰っていった。そして、鬼神たちに「この世において称賛されるべきは肉体である。大切にされるべきは肉体である。この世において肉体を称賛し、肉体を大切にするときに、人はこの世とあの世の両世界を獲得する」と、告げた。
こんな訳で、今日でも、この世で布施もせず、信仰心もなく、祭祀を行わない者は「鬼神のような人間だ」と言われているのである。これが鬼神のウパニシャッド(奥義)だからである。この種の者は、死者の肉体を布施で得た衣服や飾りもので飾り立て、これによってこの世とあの世とを獲得し得ると考えているのである。
ところが、インドラ神の方は、神々の許に帰り着く前にこんな心配が心の中に生じてきた。「あの水盤中の肉体は、この身が立派な飾りを身につけているときには立派な飾りを身につけているし、身支度を整えているときには身支度を整えている。同様に、この身が盲目になれば身体障害になり、この肉体が消滅すれば消滅する。こんなことで私は真理を悟ったなどと喜んではいられない」
...「...何を求めてお前は戻ってきたのか?」と、プラジャーパティがインドラ神に尋ねた。
「...この肉体が消滅すれば消滅する。こんなことで私は真理を悟ったなどと喜んではいられません」と、インドラ神は答えた。
「いかにもその通りだ」と、プラジャーパティは言った。
「そのことを私はお前に教えるから更に32年間、私の許に住みなさい」と、プラジャーパテがィは言った。...32年間住み、プラジャーパティが言った。
(ch.Ⅷ.ⅸ.3-8)→引用の間違いにより不明
「夢の中で楽しげにさまようもの、これが真我(アートマン)である。これこそ不死なるものであり、恐れを知らぬものであり、ブラーフマンである」(と、プラジャーパティが言った)
インドラ神はこの教えを受けて心から満足して立ち去った。しかし、神々の許に到着する前に、またも次のような心配が生じた。
「たとえ、この肉体が盲目になってもその真我(夢の中の肉体)は盲目にならない。手足が麻痺してもその真我(夢の中の肉体)は麻痺しない。この(夢の中の)肉体は肉体の欠陥によっても損傷されない」
「...しかし人々は他人がその肉体を殺害したり、迫害したりする。不快なものを経験し、号泣さえする。こんなこと(真理の探究結果)で私は嬉しがるわけにはいかない」
再び戻ってきたインドラ神に対してプラジャーパティは次のように言った。
「...何を求めるために戻って来たのか?」
インドラ神は、「この肉体が盲目になってもその真我は盲目にならない。...こんなことで私は嬉しがるわけにはいきません」と答えた。
「その通りである。...私は更にお前に説明するから、更に32年間私の許に住みなさい」と、プラジャーパティがインドラ神に言った。
「人が眠り、感覚器官を完全に制御して寂静状態になり、夢も見ないときに、これが真我(アートマン)である。これこそ不死なるものであり、恐れを知らぬものであり、ブラーフマンである」(と、プラジャーパティが言った)
インドラ神はこの教えを受けて心から満足して立ち去った。しかし、神々の許に到着する前に、またも次のような心配が生じた。
「あのような真我(熟眠状態の肉体)は、“私はこれである”と、このように正しく自己を認識しない。万生さえも知らない。それは完全に消滅してしまったものと同じである。私はこんなことで嬉しがるわけにはいかない」
「...何を求めて帰ってきたのか?」と、プラジャーパティが言った。
「尊師様、実に熟睡している人は、このように、丁度そのときには、この眠っている人は自分であると、自分自身を認識しません。それは完全に消滅してしまったものと同じである。このようなことで私は嬉しがるわけにはいきません」と、インドラ神が答えた。
「...いかにもその通りだ。それについてもっと深いことを教えてあげよう。更に5年間私の許に住みなさい」と、プラジャーパティが言った。
かくしてインドラ神は更に5年間の修行をおさめた。これでインドラ神の修行は101年に及んだのである。世に“インドラ神は尊師プラジャーパティの許で101年のヴェーダを学ぶ修行を積んだ”と言われているのはこのことである。
「マガヴァン(インドラ神)よ、まことに、この肉体は死すべきものであり、死によって捉えられている。これは、あの、不死の、肉体を有しない真我(アートマン)の住まいである。まことに、肉体を有するものは、快適なものと不快なものによって捉えられている。まことに、人が肉体を有するときは、快適なものと不快なものとの除去は不可能である。しかし、肉体を有しないものには、快・不快は触れ得ないのである」
さて、この空間に視覚が向けられている場合に、真我(アートマン)は観る人となる。眼というものは、ただ真我(アートマン)が観るための道具にすぎない。次に、“私はこれを嗅ごう”と意識するものは、真我(アートマン)である。鼻はただ、香りを嗅ぐための道具にすぎない。次に、“私はこれを語ろう”と意識するものは、真我(アートマン)である。発語器官はただ、語るための道具にすぎない。...
次に、“私はこれを考えよう”と意識するものは真我(アートマン)である。意思(マナス)は真我(アートマン)の神的(ダイヴァ)な眼に他ならない。真我(アートマン)はこの神的な眼たる意思をもって、かのブラーフマンの世界にある諸願望の実現を観て楽しむのである」このようにプラジャーパティはインドラ神に教えたのである。
そこで神々はかかる真我(アートマン)を瞑想したのである。それ故に、一切の世界(善き境遇)と一切の願望とが神々の手に帰したのである。されば、かかる真我(アートマン)を見いだして、これを意識化するものは一切の世界と一切の願望とを得ることができると、プラジャーパティが語った。
最高のブラーフマンを知る者は、ブラーフマンそのものとなる。そして、その子孫には、ブラーフマンを知らない者は生まれない。彼は悲しみと美徳と悪徳を乗り越え、心の結び目から解放され、不滅となる。
アートマンは、肉身の中にあって肉身がなく、不安定なものの中にあって安定しており、偉大で、あまねく滲透していると考えて、賢者は悲しまない。
始めもなく徳性も持たぬ不滅なる究極の真我(パラアートマン)は、肉体の中に存在しても行為せず、汚されることもないのだ。
(更にヤージナヴァルキァ師が教えた)
「神人(プルシャ)が熟眠中に知ることをしないのは、実際は知っているのですが知るということに関与していないからです。それというのも、知る者たる神人は不滅の存在である故に、神人のその知る能力が失われるということはないからです。しかし、この神人とは異なり、神人が認識の対象として知ることのできる第二のものは、真に存在することはないのです」
もし、もう一つのもの(すなわち個別の魂)が、(最後に)示唆されているように、小さな空間であるべきだと主張するならば、それは不可能である。
しかし、その教えは、ヴァーマデーヴァの場合のように、聖典と一致する先見者の(seer's/予言者)のヴィジョンから導かれる。
今回の十九節を要約すると
もし、同じウパニシャッド聖典の後の記述で、心臓内の小さな空間が個我であると言われているではないかと主張される場合、むしろ、そこで顕現されている真我(アートマン)本来の性質について語られていると、私たちは言いたい。
『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』の引用に関しては、シャンカラ師が引用していないものまで、多少の省略はあれども、文脈が読み取れる程度に記載したのでご参照ください。
伝統的な師と弟子の教説はこういうものだということが垣間見れると思います。というのは、弟子が納得した以上のことについて師は語らないということです。実際に、私の先生もそうです。訊かれていないことには一切答えませんので伝統的な教授法なのだと思います。
そして、神々のひとりであるインドラ神でも101年の修行期間が要することでもあるので、その当時、私は、脳だけ生身のサイボーグでも修行を続けられますか?と先生に尋ねたのを思い出します。