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「ヴァイシュヴァーナラが一人の火の人(プルシャ)であるとスムリティに言及されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.26)
はじめに
今回引用されている『シャタパタ・ブラーフマナ』は、私はよく知りません。調べてみると、『シャタパタ・ブラーフマナ』とは、現存する全ブラーフマナのうちでもっとも詳細なものであり、「百の道のブラーフマナ」という意味で全部で100の章(アディヤーヤ)から構成されているためにこの名があるとのことです。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十六節
26節 使用されている言葉やその他の要素、そして内部に居住していることから、ヴァイシュヴァーナラは至高の自己ではないと反論される場合、私たちはこう言います。そうではありません。なぜなら、教えはブラーフマンをそのように考えることであり、その詳細は他の人には適用できず、彼らは彼を一人の人物(プルシャ)としてさえ言及しているからです。
ここで反論相手は、至高の主はヴァイシュヴァーナラではあり得ないと主張しています。
なぜでしょうか?
なぜなら、使用されている言葉だけでなく、その他の要因のため、そして内部に居住しているからだ。まず「言葉」について、ヴァイシュヴァーナラという言葉は、その慣習的な意味が別のものであるため、至高の主に対してどうあっても使うことはできない。「そのような火はヴァイシュヴァーナラである」(S.B.X.vi.1.12)のように、火という言葉も至高の自己には当てはまらない。「その他の要素」という用語は、「心臓はガールハパティヤの火である」(Ch.V.xviii.2)などに含まれる三つの火に関する概念、および、「さて、最初に来る食物は捧げ物として捧げられるべきである」(Ch.V.xix.1)というテキストにある、プラーナへの捧げ物の場所としての火(アグニホートラの火として考えられている)の言及を理解するものである、とあります。これらの理由から、ヴァイシュヴァーナラという言葉の意味は、胃の中の火と理解される。そしてまた、「これ(ヴァイシュヴァーナラと呼ばれるこの火)をプルシャ(人)として、プルシャ(どこでも食物を食べる)の似姿を持ち、プルシャの内に住まいすることを知っている者」(S.B.X.vi.1.11)と聞いている。
それは胃の中の火には可能である。「天は頭である」(Ch.V.xvii.2)などに言及されている詳述(specification)のために、ヴァイシュヴァーナラ(*19)は至高の自己でなければならないという議論については、「どちらの見解も支持する詳述がある中で、至高の主についての詳述だけが受け入れられ、胃の中の火についてのもう一方の詳述が受け入れられないという決定(decision)に、どのように至るのですか?」と問う。あるいは、内と外に存在する火という要素について言及しているのかもしれない。というのも、次のようなマントラのテキストから、火もまた天などとの関係を持っていることがわかるからである。「(瞑想すべきは)太陽の形で、この大地と天、そして天と地の間の空間を浸透しているもの」(R.V.X.xxxvii.)あるいは、火を体とする神は、その神性によって天などを手足とすることができる。したがって、ヴァイシュヴァーナラはここでは至高の主を意味しない。
(*19)Vaisvanara:「すべてを満たし、どこにでも存在し、本質的に意識である実在」を意味します。
ヴェーダンティン:それに対して私たちはこう言います。いいえ、なぜなら、この教えはそのように考えることについてのものだからだ。「言葉の使い方」などの理由から、至高の主は否定されるべきではありません。
なぜか?
なぜなら、その教えは、胃の中の火(としての意味)を放棄することなく、そのように想像すること(ヴァイシュヴァーナラ)についてだからです。胃の中のヴァイシュヴァーナラの火の上に至高の自己の考えを重ねることは、「心をブラーフマンとして瞑想しなさい」(Ch.III.xviii.1)と同じように、ここでも教えられているからである。あるいは、胃の中のヴァイシュヴァーナラの火という限定的な付属物によって条件づけられたものとして、至高の自己を瞑想することがここで教えられています。まさに、「心と同一視し、生命力を体とし、輝きをその姿として持つ」(Ch.III.xiv.2)など(*20)のテキストで教えられているとおりです。
(*20)etc:前者の場合、火は象徴であり、後者の場合、それは付属物です。
もしここで至高の自己が暗示されず、単に胃の中の火を意味するのであれば、「天は頭である」などというテキストの詳述は必ず不可能になる。神や火という要素に頼っても、この詳述が正当化できないことは、次の格言で説明しよう。単に胃の中の火を意味するのであれば、それはプルシャの中にのみ住むだけで、プルシャ自身ではありえない。しかし、ヴァジャサネーヤ説の信奉者たちは、このヴァイシュヴァーナラをプルシャそのものとして、「プルシャである者は、ヴァイシュヴァーナラと呼ばれるこの火である。ヴァイシュヴァーナラと呼ばれるこの火をプルシャと知る者は、プルシャの似姿を持ち、プルシャの中に住む」(S.B.X.vi.1.11)と読んでいる。しかし、至高の自己は万物の自己であるから、プルシャであると同時に、プルシャの中に住むこともできる。
格言のこの部分を「purusavidhamapi ca enamadhiyate( 彼らは彼をプルシャにも似ている)」と読む人にとって、その意味はこうである。単に胃の中火を意味すると仮定すると、それは単にプルシャの中に住むことはできるが、プルシャの似姿を持つことはできない。しかし、ヴィジャサネーヤ・recesion(?)の信奉者たちは、「プルシャの似姿を持ち、プルシャの中に住まわれるお方を知りなさい」というテキストの中で、このお方をプルシャの似姿も持つものとして読んでいる。 そして、「プルシャの似姿」という用語は、現在議論されているトピックにしたがって、その神聖な側面では、頭として天から足として大地まで数えるすべての手足であり、その肉体の側面では、頭から顎まで数えるよく知られた人間の手足であると理解されるべきである。
最後に
今回の第一篇第二章二十六節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『シャタパタ・ブラーフマナ』を以下にてご参考ください。
搾られたソーマのように輝くアートマンは、この一切に遍満するアートマンの頭に過ぎない。一切の姿をもつアートマンはその眼にすぎず、種々の通路をもつアートマンはその気息にすぎず、豊富なものとしてのアートマンはその膀胱にすぎず、根拠としてのアートマンはその両足にすぎない。さらに、祭壇はその胸にすぎず、祭壇に敷く芽はその毛髪にすぎず、ガールハパトヤ祭火はその心臓にすぎず、アンヴァーハールヤ=パチャヤ祭火はその意にすぎず、アーハヴァニーヤ祭火はその口にすぎない。
如何なる食物であれ、人が最初に得た食物を祭火に供物として投げ入れるべきである。最初に供物を祭火に投げ入れるとき、「プラーナ(吸気)に、スヴァーハー」と唱えて、火に投げ入れよ。それによって、プラーナは安らかになる。
ヴァイシュヴァーナラと呼ばれる火をプルシャと知る者は、プルシャのごとくになり、プルシャの内に住まいする。
「意(マナス)をブラフマンとして崇崇すべきである」とは個体に関することである。[従って、]次には、神に関することが[述べられねばならぬ]。「虚空をブラフマンとして尊崇すべきである」といえば、個体に関しても神に関しても、両者が説かれたことになる。
意(マナス)から成り、生気を肉身とし、光輝を姿にもち、真実を思惟し、虚空を本性とし、一切の行為をなし、一切の欲望をもち、一切の香を具え、一切の味をもち、この一切を包括し、沈黙し、わ煩わされることのないもの、
今回の二十六節を要約すると
もしも、火の人(ヴァイシュヴァーナラ)という言葉の意味として消化の火というものや他の理由からや、また、体内に存在するということからも、ブラーフマンではないと言うのならば、私たち(ヴェーダーンタ)はそうではないと反論する。なぜならば、消化の火がウパニシャッド聖典に記されているように、その頭が天国であるなどのようであるはずがなく、また、聖伝聖典にはヴァイシュヴァーナラとは単なる消化の火ではあり得ない一人の火の人物であるとも記されているからである。
そして、『シャタパタ・ブラーフマナ』を引用して、その「火」だけを認めるのではなく、「火」の背後にある「プルシャ」というものをすべて一緒くたに私たちが認めるならば、「プルシャ」の内に住まうことができるというもので
たとえば、仏像を拝もうと、また、ホーマカラナ(火の儀式)の火を拝もうと、神社の鏡を拝もうとも、それら全体の背後にある(出自となる)大いなる存在たる「プルシャ」であると知り認めるならば、「プルシャ」の内に住まうためのガウニと呼ばれる前段階の信仰となり、そのガウニを通して(ガウニを通り抜けることで)背後または出自に行き着くための訓練となり得ると類推することができます。