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「食べている個我と無関係な真我というムンダカ・ウパニシャッドの比喩」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.7)


はじめに

比喩的で哲学的な教えとして知られる『ムンダカ・ウパニシャッド』だけに今節ではその一端が伺えると思います。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章七節

7節 そして、留まっていることと食べていることという事実のためだ。

天と地などの住まいを示しながら、留まっていることと食べていること(すなわち経験すること)の事実が「たえず結びついていて、似たような名前を持つ二羽の鳥」(Mu.III.i.1)などとテキストで述べられ、仕事の結果の経験は「これらのうち、一方は味の異なる果実を食べる」(同上)と述べられ、淡々として留まっている方は「もう一方は食べずに見ている」(同上)と述べられている。留まっていることと食べること、この二つの事実によって、神と個別の魂がその文脈で理解される。神が天や地などの住まいとして示されようとしていたのであれば(Mu.II.ii.5)、すでに議論の対象となっている神を、個別の魂とは別のものとして語ることが適切になるだけである。そうでなければ、脈絡のない、関係のないことを突然語ることになる。

反論相手:個別の魂が神とは違うという言及は、あなたの場合であっても、同じように文脈から外れていませんか?

ヴェーダンティン:いいえ、魂(それ自体)は表題の主題として提示されていないからです。個別の魂は、知性のような限定的な付属物と結びついた代理人であり経験者として、あらゆる肉体に存在し、一般的な経験そのものから知られているので、それ自体のためにウパニシャッドで言及されることはありません。しかし、神はこのように一般的な経験からはよく知られていないため、ウパニシャッドでは神自身のために宣言されることが意図されている。それゆえ、神についてのいかなる言及も無用であると言うのは適切ではない。また、「空洞に入った二者は、個別の自己と至高の自己である」(B.S.I.ii.11)という格言の下で、神と個別の魂が「二羽の鳥」(Mu.III.i.1)という節で語られていることが示された。パイフギ・ウパニシャッドの説明では、この節ではサットヴァ(知性)と個別の魂が語られていると述べられているが、それでも矛盾はない。

どのように?

ここで否定されているのは、どんな生き物も天や地などの安住の地になり得るということである。というのも、ちょうど壺の中の空間のように、この生き物は、サットヴァのような限定的な付属物(adjunct)と同一視されるように、あらゆる肉体において個別に知覚されるからである。しかし、すべての肉体において、すべての限定的な付属物(adjunct)から自由であると認識されるお方は、必然的に至高の自己でなければならない。ちょうど、壺などの中の空間が、壺などの制限から自由であると認識されるとき、宇宙空間にすぎないのと同じように、(付属物から解放された)生き物は、至高の自己と論理的に異なるものではないので、(天国などの安住の地としての)生き物を否定することは不可能である。それゆえ、本当に否定されるのは、サットヴァなどと同一化する魂が天や地などの安住の地になり得るということである。したがって、至高のブラーフマンのみが天や地などの安住の地であり、このことは、先の格言「見えないなどの性質を持つ実在はブラーフマンであり、その性質が語られているからである」(I.ii.21)によって立証された。というのも、あらゆる存在の根源に関するまさにそのテキストに関連して、「天、地、そして空間に張りめぐらされている」(Mu.II.ii.5)などと書かれているからである。この主題は、より詳細(*5)を説明するために、ここで復活させたものである。

(*5)elaboration:すべての源は、すべての最奥の自己でもあることを示す。

最後に

今回の第一篇第三章七節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』そして、初代ではないシャンカラ師の註解、『ブラフマ・スートラ』を以下にてご参考ください。

仲間であり、友である二羽の鳥は、同じ木にまとわりついている。その中の一羽は甘いイチジクを食べ、他の一羽は食べないで眺めている。

(Mu.III.i.1)

1.立派な羽毛を持つ二羽の離れられない仲間が同じ木に止まっています。二羽のうち一羽はおいしい果実を食べています。もう一羽はそれを味あうことなく見ています。

不滅の「プルサ」(真理)を知ることができるパラ・ヴィディヤが説明され、その知識によって、心の結び目などの輪廻の原因を完全に破壊することができる。ブラフマンを悟るための手段であるヨーガについても、「弓と残りのものを取る」という例で説明した。さて、続く部分は、真理など、そのヨーガの補助的な助けを教え込むことを意図している。主に、真理を悟るのは非常に難しいので、ここでは別の方法によって真理を決定する。ここでは、すでに行われているが、絶対的な実体を確認する目的で、格言としてのマントラ(短い)が導入される。Suparnau、良い動きの二羽、または二羽の鳥、(「Suparnaという言葉」は一般的に鳥を表すのに使われる)、Sayujau、切っても切れない、不変の、仲間、Sakhayau、同じ名前を持つ、または同じ顕現の原因を持つ、このように、それらは同じ木に止まっている(「同じ」というのは、それらが知覚される場所が同じだからである)、ここでの「木」は「肉体」を意味し、切断されたり破壊されたりする傾向があるからで、Parishasvajate、まさに鳥が果実を味わうために同じ木に向かうように。

パラ・ヴィディヤが説明され、それによって不滅の「プルシャ」または真理を知ることができ、その知識によって、心の結び目など、輪廻の原因を完全に破壊することができる。ブラーフマンを悟る手段であるヨーガも、「弓を取って休む」という例えで説明した。さて、後続の部分は、真理など、そのヨーガの補助的な助けを教え込むことを意図している。主に、真理はここでは別の方法で決定される。なぜなら、それを実現することは非常に難しいからだ。ここでは、すでに行われているが、絶対的な実在を確かめる目的で、格言としてのマントラ(短い)が導入される。Suparnau、2つの良い動き、または2羽の鳥。(「スパルナという言葉」は、一般的に鳥を表すために使用されます)。サユジャウ、切り離せない、不変の、仲間。サカヤウ、同じ名前を持つ、または同じ顕現の原因を持つ。このように、それらは同じ木に止まっています(「同じ」というのは、それらが知覚される場所が同一だからです)。ここでの「木」は「体」を意味します。なぜなら、それらは切られたり破壊されたりする傾向があるからです。パリシャスヴァジャテ、抱き寄せる、まさに鳥が同じ木に行って果物を味わうのと同じです。

よく知られているように、この木は根が上(すなわちブラーフマン)にあり、枝(プラーナなど)が下に向かって生えている。それは一過性のもので、Avyakta(マーヤ)に源を持つ。それはクシェートラと名付けられ、すべての生き物のカルマの果実をそこに打ち込む。無智、欲望、カルマ、そしてそれらの顕現していない傾向がまとわりつく微細体の中で条件づけられ制限されたアートマンとイシュヴァライスヴァラは、ここに鳥のように止まっている。このように止まっている二羽のうち、一羽、すなわち、微細体を占めるクシェートラジュナは、多くの多様な様式(mode)で味わえる幸福と不幸として際だったカルマの果実を食べ、つまり無智から味わうのだ。もう1つ、しなわち主は、永遠で純粋で本質的に理知的で自由であり全智であるので、マーヤに制約されているのは食べない。なぜなら、虚偽は、(すべての)永遠の観察者としてのイドの単なる存在という事実によって、食べる者と食べられるものの両方の監督者であり、味わうことはなく、ただ見守るだけである。なぜなら、王の場合と同じように、王の単なる目撃が指示となるからである。

(Mu.III.i.1)Shankara’s Commentary

その中に天と地、そして気界とが、全ての生気を伴った意思と共に織り込まれているもの。それだけが唯一の真我(アートマン)だと悟れ。これ以外の言葉を捨て去れ。この真我こそ不死の境地との間にかかる橋である。

(Mu.II.ii.5)

(心臓の)空洞に入った二者は、個別の自己と至高の自己であり、それが(他のテキストで)見られるものである。

(B.S.I.ii.11)

今回の七節を要約すると

そして、関係しないものである真我と食するものとしての個我という二つの条件が示されているからだ。

この関係しないものというのは、常に観ている方で食するものというのは観ることになっています。実際に食べているものは主体になって食べているものが客体になっているわけですが

これを『ムンダカ・ウパニシャッド』第三篇第一章一節を引用して、「仲間であり、友である二羽の鳥は、同じ木にまとわりついている」つまり、同じ木の枝に留まっている二羽の鳥を比喩として区別して語っています。

「その中の一羽は甘いイチジクを食べ、他の一羽は食べないで眺めている」として、「観ている鳥」と「食べている鳥」を「観ているもの」と「観ていること」で区別しています。「観ているもの」と「観られているもの」、そして、「観ること」の中でここでは「観ているもの」と「観ること」に焦点を合わせています。

何を言わんとしているのかと言えば、私たちが毎日食べていたり寝たり起きたり仕事をしたりというのは、ここで言うところの「食べている鳥」となり、それを観ている鳥がいるのと同じように、観ているものが行為とは無関係に淡々として留まっているという比喩になっています。

私たち生き物は、解脱していようとしていまいとに関わらず食べるしトイレにも行くわけですが、なまじっかに哲学的なことをかじっているインドの人たちの中には、あの人は解脱したのにまだなんか食べたり塩気が足りないとか喉が渇いたので水を下さいとか部屋が寒いから暖かくして欲しいとか、言ったりする聖者に対して、此奴はまだ解脱してなんかいないとか者がいたりするようです。

しかし、解脱したと言われるようなヨーガ行者とは、もしくは、聖者とは、この『ムンダカ・ウパニシャッド』で比喩として用いられている「観ている鳥」を自ら意識してもしくは認識して普通に食べてトイレに行っているということを今節で読み取れると思います。

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