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「ここで問題としている文脈からしても安住の地はブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.6)
はじめに
「安住の地」というのは、文字通りの意味として「何の心配もなく落ち着いて住める場所」もしくは「心穏やかに過ごすことのできる場所」となるのでしょう。
そして、一般的には、「安住の地」は、この世界において常に何らかの形で希求し、多くの人がひとつは持っているものだと思われますが、しかし、それらはすべて形あるものであるので、変化し永遠ではないと言えます。
ここで言及している「安住の地」とは、相対的なものではなく絶対的なものとなっています。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章六節
6節 文脈を考慮すれば。
なぜなら、これは至高の自己の文脈だからである。このことは、「高名な先生よ、(そのことは)何が知られることによって、このすべてが知られるようになるのですか?」(Mu.I.1.3)というテキストから明らかである。そこでは、すべての知識が 一つの知識に依存するようにされています。というのも、万物の自己である至高の自己を知ることによってのみ、このすべてが知られるようになるのであって、単に生き物を知ることによっては、そうならないからである。
これ以上に、生きている生き物が、天や地などの住まいとして受け入れられない理由があるだろうか?
最後に
今回の第一篇第三章六節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』そして、初代ではないシャンカラ師の註解を以下にてご参考ください。
まことに、偉大な家住者であるシャウナカは、弟子としての決まりを守りアンギラス師に近づき、「尊敬すべきお方様、何が悟られる時に、一切が悟られるのでしょうか?」と尋ねた。
3.grihasta(Mahasalah)であるシャウナカは、アンギラスに近づいて、彼に尋ねました。「バガヴァンよ、何が知られると、すべてが知られるようになるのですか?」
シャウナカはスナカの男子の子孫。Mahasalah は「偉大な家長」を意味し、アンギラスはバラドヴァジャの弟子で彼自身の師匠を意味し、Vidhivatは「適切に、すなわちシャーストラ(聖典)に従って」を意味し、ウパサナは「近づいた」を意味し、Paprachhaは「質問された」を意味し、シャウナカとアンギラスの関係の直後に言及されている「適切に近づくこと」から、近づく方法に関しては、彼以前の古代人の間に確立された規則がなかったと推論されるべきである。「適切に」という属性は、制限を定めるか、家の中に置かれたランプの類推ですべての人に同様に適用されることを意図していた可能性がある。なぜなら、「近づく方法」に関する規則は、私たちのような人々の場合にも意図されているからである。彼は何と言ったか?「それは何ですか?ああ、バガヴァン(尊き賢い師)など。」助詞「nu」は疑いを表す。Bhagavoは「おお、バガヴァン」を意味します。「このすべて」は「知ることができるすべてのもの」を意味します。Vijnatamは「特に知られている、または理解されている」を意味します。[おお、バガヴァン、知られているものは何ですか、知ることができるすべてのものがよく知られるようになる]。シャウナカは、「知られているとき、彼はすべてを知る者になります」という善良な人々の格言を聞いて、特にその一人を知りたいと望み、疑問を抱いて「それは何ですか」と尋ねました。または、単に一般的な観点から見て、質問しました。世の中には金などの様々な物があり、それらは異なっていても、物質(金など)の統一性を知っていることで世の中の人々に知られています。同様に、「世の中の様々な物すべてに一つの原因があるのでしょうか?その原因が分かれば、すべてがよく分かるようになるのでしょうか?」物事の存在が知られていない場合、「それは何ですか、など」という質問は適切ではなく、「ありますか、など」という形式の質問が適切であると言えるでしょう。存在が確立されている場合、「それは誰に預けられますか?」という表現のように、「それは何ですか?など」という質問が適切である可能性があります。この反論は根拠がなく、冗長さによって迷惑をかけることを恐れて、この形式の質問が適切となる。
今回の六節を要約すると
ここで問題としている文脈からしても、天上界や地上界の安住の地はブラーフマンである。
ここでは引用はされていませんが、以下の『ムンダカ・ウパニシャッド』第三篇第二章九節から三節の答えとして
まことに、ブラーフマンを悟る者は、ブラーフマンになる。…心臓の結節から解放されて、そのものは不死となる。
つまり、ブラーフマンを悟ることで一切であるブラーフマンをすべての智慧を悟ることとなる、と結論づけています。