見出し画像

「スムリティでヴァイシュヴァーナラが至高の主を意味する有様として言及される故に神である」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.25)


はじめに

今回に引用されている『マハーバーラタ』は、バラタ族(物語の中心となるクル族の別称)にまつわる大叙事詩で『ラーマーヤナ』とともにインドの二大叙事詩と称される。第六巻に含まれている『バガヴァッド・ギーター』を聖典としてよく知られています。

簡単なあらすじを書こうとしましたが、世界で最も長い叙事詩だけに難しいのですが、パーンドゥ王の息子である五王子(パーンダヴァ)と、その従兄弟であるクル国の百王子(カウラヴァ)の間に生じた長い確執と、クル国の継承を懸けたクル・クシェートラにおける大戦争を主筋とした内容となります。

十八日間の凄惨な戦闘の末、戦いはパーンダヴァ側の勝利に終わったものの両軍ともに甚大な被害を出すのですが、この主筋を語るにあたって、さまざまな伝説や神話、哲学問答などが組み込まれています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章二十五節

25節 スムリティで言及されている有様(The form)は(ヴァイシュヴァーナラが至高の主を意味する)指し示す印であり、したがって、ヴァイシュヴァーナラは神である。

神がヴァイシュヴァーナラを意味するもう一つの理由は、三界を構成し、火を口とし、天を頭とするなどの有様(the form)は、神自身に属するとスムリティが述べているからである。「火を口とし、天を頭とし、空を臍とし、大地を両足とし、太陽を目とし、方角を耳として、三界に具現された御方に礼拝」(Mbh.XII.47.68.)スムリティの中で言及されているこの有様は、その基礎となっているヴェーダのテキストを証明している。したがって、(ヴェーダの)ヴァイシュヴァーナラという言葉が至高の主を表していると推論する根拠となる。itiという単語は「したがって」という意味で使われ、それによって「これはその結論に至る推論の根拠であるから、ヴァイシュヴァーナラは至高の自己そのものを意味する」ということを暗示している。「三界に具現されたお方への礼拝」は賛美であるが、それでも、このような有様(a form)の提示を伴う賛美は、その基礎を形成する何らかのヴェーダのテキストがない限り、まったく不可能である。次のような他のスムルティのテキストも、ここで引用することができる。「神の本質は計り知れず、万物の創造主である。ブラーフマナ方が、天は頭、空は臍、太陽と月は目、方角は耳として知られるべきであり、大地は両足であると言われている」

最後に

今回の第一篇第二章二十五節にて引用されている『マハーバーラタ』を以下にてご参考ください。

大いなる存在に礼拝し奉る。御身は三回としてお姿を顕され、火は御身の口なり、天上は御身の頭なり、天空は御身の臍であり、大地は御身の両足であり、太陽は御身の両目であり、方角は御身の両耳である。

(Mbh.XII.47.68.)

今回の二十五節を要約すると

スムリティ(聖伝法典)の中で語られているブラーフマンの有様も、ヴァイシュヴァーナラはブラーフマンであるという、そのような意味の言葉になっているのだから、ヴァイシュヴァーナラ(火の人)とは神でありブラーフマンなのである。

前節の「最後に」に記したが、ヴァイシュヴァーナラを「火の人」と訳しました。この『ブラフマ・スートラ』が書かれた当時の人たちにとって、このヴァイシュヴァーナラという言葉を聞くと、すぐに、アーユルヴェーダで用いる「消化の火」として胃の中で働いている「火」と受け取っていたのかもしれません。

「火」という形もいろいろな様相をあらわします。たとえば、薪の「火」や太陽の「火」もあるのと同じように、胃の中で消化する役割としての「火」もあるということをインドの人たちはわかっていたと言えます。

それぞれの「火」をブラーフマンなのだと、シャンカラ師は、『マハーバーラタ』を引用して、大いなる存在というのは、すべてに満ち溢れて存在しているという意味としているのだと推論できます。

いいなと思ったら応援しよう!