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「目の中に内在するブラーフマンについて」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.13)


はじめに

今回の節で、講義を受講した当時に一歳に成り立ての次女の目の中をジッと覗き込んで見ていたなぁーとか

次男のバッティング練習でプラスチックボールが右目に当たり網膜剥離になって硝子体手術をした時に、眼の中にカッターが入ってくるのが見えたことなどを思い出します。

そういう意味ではないのですが、しかし、「目の中に内在するブラーフマンとはどういうことなのか?」ということをテーマとして瞑想の中で熟考してみてもよろしいかと思います。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十三節

表題4 目の中の人

13節 内なるお方は(神である)、それが論理的だからだ。

疑問:「彼(サトヤカーマ・ジャーバーラ)は(ウパコーサーラ)に言った。“このお方は目に見える者(プルシャ)は自己である。このお方は、不滅であり、恐れを知らず、ブラーフマンである。それゆえ、澄ましたバターや水をその上(目)に注ぐと、まぶたに流れ落ちる”」(Ch.IV.xv.1)と私たちはウパニシャッドの中に読んだ。ここで疑問が生じる。ここで疑問が生じる。目に映る影のような存在は、ここに示されているのだろうか?それとも、知性と同一視される個別の魂なのか?それとも、目を司る神聖な存在なのか?それとも神なのか?結論はどうなるのか?

反論相手:それは影のような存在であり、(目に映る)ある人物の投影である。なぜなら、それは知覚の対象としてよく知られており、「目に映る存在」(同書)で身近なものとして教えられているからである。あるいは、これは知性と同一視される魂についての教えかもしれない。なぜなら、目を通して色を知覚するとき、目に最も近づくのはこの存在だからであり、この場合、自己という言葉が適切となる。あるいは、目を助ける太陽の存在がここで認識されるべきものである。というのも、ウパニシャッドのテキストには「彼(つまり太陽の存在)は、光線を通して後者(つまり右目)にやすらぐ」(Br.V.v.2)とあり、(太陽の)神聖な存在についても、不死などが何らかの形で証明され得るからである。しかし、その存在は神ではない、特定の場所が示されているからである。

ヴェーダンティン:この立場から、私たちは、神ご自身が目の中にいる存在であると教えられているのです。

なぜですか?

なぜなら、それは理にかなったことだからだ。ここで教えられている多くの性質は、論理的に神に属することができるからだ。その中でも、自己であるという事実は、基本的な感覚(in the primary sense)でブラーフマンに当てはまる。なぜなら、ウパニシャッドは、「彼は自己である。汝はそれである」(Ch.VI.viii.7)と述べています。また、ウパニシャッドでは、ブラーマンについて不死と無畏(恐れのなさ)が頻繁に宣言されている。同様に、この目は座(所在地)として神にふさわしい。ウパニシャッドにおいて、神が罪などからの自由を謳われているように、神はあらゆる汚れに触れていない、「したがって、澄んだバターや水を注ぐと、それはまぶたに流れ落ちる」(Ch.IV.xv.1)というテキストにあるように、目はどんな汚れもない場所として示されている。そして、そのような資質が「あらゆる祝福の拠り所」であるという教えは、(次のテキストで述べられているように)神と一致している。「彼らは神を“行為の結果の目標”と呼ぶが、それは行為のすべての結果が神に向かって進むからである」(Ch.IV.xv.2)、「この方は確かにすべての善い結果の運び手であり、それはこの方がすべての善い行いの結果を(その受け手へと)運ぶからである」(Ch.IV.xv.3)、「この方は確かに「すべての光の導き手」であり、それはこの方がすべての世界で輝くからである」(Ch.IV.xv.4)それゆえ、内なるお方は神である、それが論理的だからである。

最後に

今回の第一篇第二章十三節にて引用されている『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』と『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

師匠はこのように語った。「この眼の中に見られるプルシャは、アートマンである。それは不死で、無畏である。それはブラフマンである。眼に酪油あるいは水を注ぎかけても、睫毛(まつげ)にだけかかる[のは、眼の中にいるプルシャが眼を閉じさせるからである]」

(Ch.IV.xv.1)岩本裕訳


ところで、真実在のものはあそこにある太陽である。太陽の輪の内にある者と右目の中にある者とは、互いに支え合っている。太陽の輪の内にある者は、太陽の光によって右目中にある者の中に支えられており、この右目中にある者は生気によって太陽の輪の内にある者の上に支えられている。こうした人物がこの世から去ろうとする時には、太陽の輪をはっきりと見る。これらの輪は再びこの者の元にはやって来ない。

(Br.V.v.2)

この一切(全宇宙)は、それを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。それは汝である。...

(Ch.VI.viii.7)岩本裕訳

それはサンヤッド=ヴァーマと呼ばれる。一切の悦ばしいことがそれに集まるからである。このように知る者に、一切の悦ばしいことが集まるのである。

(Ch.IV.xv.2)岩本裕訳

また、それはヴァーマ=ニーと呼ばれる。一切の悦ばしいことを連れ去るからである。このように知る者は、一切の悦ばしいものを連れ去るのである。

(Ch.IV.xv.3)岩本裕訳

また、それはバーマ=ニー(「光輝を持ち去る者」の意)と呼ばれる。一切の世界において、それは輝くからである。このように知る者は、一切の世界において輝くのである。

(Ch.IV.xv.4)岩本裕訳

今回の十三節を要約すると

目の中にいるのがブラーフマンである。というのも聖典中に記されている内容がブラーフマンについて記されているからだ。

ブラーフマンは、ウパニシャッド聖典において、心臓にも内在するし、目の中にも内在するんだ、ということなのですが、おそらく、論理的な説明は十四節に述べられるのかも知れません。

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