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カントとフーコー 経験の形而上学と歴史の造型――24歳頃に執筆したオリジナル原稿完全公開版


まえがき


批判的言説の可能性および現実性への問いは、現在深刻な位置づけを与えられるにいたった。こうした事態の端緒に、ミシェルフーコーが提示した問題設定が、我々の思索を要求する一つの課題として存在している。だが彼は、この課題を固有なカントの読解作業を通じて、『言葉と物』において設定した。この問いあるいは課題は、なお無際限に開かれているように思われる。そこで我々は、カントとフ-コ-の接点を形成する問題系を、『言葉と物』第二部、7~9章の読解を核に取り出し、その問題系に基づいた以後のカント論に対する序説 Prolegomena にしたい。


 
1.変換の諸様態――同一性の表 tableau の解体 

 表とは、「諸存在に対する秩序づけ、分類、それらの相似と差異がそれによって指示される名称による区分といった操作を思考に許す」(Michel Foucault,“Les mots et les choses.”Gallimard,1966.p.9. 『言葉と物』渡辺一民/佐々木明訳 新潮社 以後の引用及び参照箇所は全て同書からのものであり、その都度 p.… の形で示す。) ものである。この表の解体とともに「一般文法、博物学、富の分析」(p.229.) が消滅する。そしてこのとき新たに、組織化の原理としての《類比》と《継起》が出現することになる。すなわち、クロノロジ-/年代記から《歴史》による類比関係の時間的系列化という場面への変換が成立することになる。(cf.p.231.) 「歴史の時代」が切り開かれるのである。
 新たな空間は、秩序、同一性、自然から歴史、起源、回帰という移行がそこにおいてなされる場である。この移行とともに、経済学、生物学、文献学あるいは言語の学が労働、生命、言語の発見に対応して誕生するが、この「発見」が含意するのは、これらそれぞれの学において「表象の分析に還元しえない次元の原理」(p.237.) が設定されたということである。どういうことだろうか。
 それぞれの学において主題化される「次元 ordre」とは、次のようなものである。
 α.「資本と生産体制の時間」(p.238.) これは、自律的ないわば「一つの組織体に内在する時間」(ibid.) である。〔経済学〕
 β.「《組織》」(p.239.) これは、「諸特徴の階層秩序」(ibid.) 、「機能」(p.240)、「生命の概念」(p.241.) 、「分類(組織空間)と指示(名称体系 nomenclature)とのずれ、歪み」(p.242f.) という四つの局面において、「分類法の基礎」(p.239.) となる。問題となっているのは、身体の表層と深層との、あるいは可視的なものと不可視なものとの関係であり、この「関係」が一次元的表に亀裂をもたらす。〔生物学〕
 γ.言語 langage 「表象固有の運動に最も深く結びついたもの」(p.245.) としての古典主義時代の言語すなわち「言説 discours」に代わって、もはやそれに対して外在的となった表象のレベルとは独立した内的規定を有した《言語》が分析の対象となる。「屈折
flexion」(p.247.) という「中間的形象」(iid.) の分析を通じて、「純粋に文法的なものの次元が出現する」(p.248.)。 内言語的な歴史性がいまや発見されるのである。〔言語学〕
 以上の変換=出来事は、すべて「表象とそのうちに与えられるものとの関係に関与している」(p.251.) 。だが、この関係の主題化は、「物、それらを分節化する空間、それらを生産する時間」(p.252.) と「純粋な時間継起としての表象」(ibid.) との解離を明らかにする。「表象は物と認識とに共通な存在様態をもはや規定しえなくなりつつある」(p.252-253.) のである。
 ところで、こうした危機に互いに逆方向から対処しようとするのが、観念学と批判哲学である。転換点としての「カントの批判哲学は(……)我々の近代性の発端をしるしづけている」(p.255.) 。近代性とは、「表象の空間の基礎、起源、限界」(ibid.) の問題化がそこで可能になる場なのであり、また同時に、「生命、意志、言葉 parole の哲学」(p.256.) が成立する場なのである。ここでは、労働、生命、言語の力のレベルにおける、すなわち「客体の側における総合」が探究の焦点になるのであり、「経験の可能性の条件が、客体とその実在の可能性のうちに求められる」(p.257.) ことになる。このように、労働、生命、言語は、フ-コ-によれば客体の側における「超越論的なもの des transcendantaux」(ibid.) として出現するのである。
 こうして、近代性という「関係」は、アポステリオリな総合と超越論的なものとの不可避的な関係、さらには「形式的な場と超越論的な場の関係」(p.260.) 、そして「経験性の領域と認識の超越論的基礎との関係」(ibid.) を思考の課題として生産する「関係」なのである。この課題に応えようとするあらゆる試みが、人間学的公準の成立という考古学的出来事とまさに不可分なものであり、超越論的反省から「反-哲学 contre-philosophie」(p.261.) への転換に対応していることが明らかにされる必要があろう。そしてこの思考の課題こそが、今なお開かれた問いを形成するものなのである。

2.擬-超越論的なもの:《quasi-transcendantaux》 と言語の客体化

 カント以後の《マテシス mathesis》(あらゆる学=知の「普遍数学」化の試み)の解体によって、古典主義時代の表のレベルは、労働、生命、言語という擬-超越論的なものの「組織、体系といったある種の総合の諸効果」(p.263.) に他ならなくなる。カントの《批判》以後、絶えず「起源、因果性、歴史」(ibid.) が問題になるが、この主題化の作業は常にあの総合的統一のプロセスの解明を標的にしていたわけである。そしてこの解明は、それ自身上記の三項の関係の思考=総合という形をとる。この解明作業は、むろんカントにおいて人間学の体系的構築という課題の枠内で明確に自覚されていたと言えよう。しかし、今日超越論的統覚と身体との関係がなお問題となり続けているのは何故なのか。フ-コ-によれば、近代性を形造る新たな知 savoir はいずれも人間学的公準を完全に脱却することは出来なかった。従って、既述の学=知は、この公準の限界を総合的統一の主体=統覚の水準の擬似カント的な変換作業において明らかにするはずである。以後、・で見た変換の諸様態をこれらの知による近代性の解読という側面から分析することにしよう。
 α.価値生産過程/作用としての労働による総合
 起源、因果性、歴史は、総合的統一の過程としての労働によって連接される。「リカ-ドは、思考の可能性の条件という水準において、価値の形成と価値の表象性とを分離することによって経済の歴史への連接を可能にした」(p.268.)。 「経済はその実定性において、もはや差異と同一性の同時的空間にではなく、継起的生産の時間に連結されるのである」(ibid.) 。しかし、こうした解読は、「人間の自然的有限性についての言説としての人間学」(p.269.)に依拠することになる。人間の歴史的有限性あるいは有限的歴史の《規定》は、「稀少性」(p.268.) と「進化」(p.270.) の概念に関与し、それぞれの概念の延長線上でリカ-ド、 #マルクス による解読作業が行われる。こうして、知が有限性と歴史性との両者を人間学的な場で思考しようとするとき、それは「系列、連鎖、生成といった様態で成立させられるのである」(p.274.) フ-コ-は、以上のような事態のうちに「弁証法と人間学とのもつれ合う約束」(p.275.) と #ニ-チェ によるその解体を見ている。
 β.組織概念の分類学的機能からの離脱
キュビエ以降器官は機能へと従属し、機能は見えるものと見えないものとの恒常的な媒概念となる。「一般的タクシノミア taxinomia[普遍的分類/命名学]の企て」(p.280.) の消滅は、表から関係への、そして「生命という総合概念への移行」(p.281.) を含意するが、この概念が関与するのは、生物の内的空間と外的空間との、可視的分散性 dispersion と潜在的統一性との関係づけという新たな試みに対してである。(cf.p.281f.)  今や「有機体」の運動空間、「非連続的自然」、「生活条件の空間」(p.287.) 、すなわち延長体の一般法則から自律した空間が思考の対象となるのである。我々はここに空間性と歴史性(あるいは時間性)の交差を見ることが出来よう。そして、この交差において導入される「生命に固有の歴史性」(p.288.) とともに、サドにおける「動物性」、殺りく、悪、反自然の空間、言い換えれば力と暴力、生命と存在の対立という次元が開かれる。(cf.p.290f.) 空間性と歴史性との交差点において見いだされた力のレベル、つまり生命の経験を探究する「野生の存在論」は、「存続への意志」のみを明らかにする。これは認識批判としての価値を持ちうるが、現象を伴わない純粋な意志を明らかにすることによって、むしろ現象の存在を消滅させるという機能を持つのである。(p.291.)
 γ.言語の内的構成――固有の存在の獲得
 言語学の誕生とともに、「種々の言語において異なるその固有の原理」(p.295.)、すなわち「文法的構成には、言説の意味 signification に対して不透明な規則性がある」(ibid.) という事実が発見される。そして、この規則性の発見が言語の内的変化の考察へと導く。さらにこの内的/歴史的変化の法則の規定が、「語幹 radical の新しい理論」(p.300.) を確立させる。だがボップによる言語の分析は、言語の内的自律性と体系性を、むしろ語る主体の意志によって根拠づける。言語表現の根拠は、それに対して外的な客体=物から主体の意志と力の側に移行したのである。語る主体の措定という人間学的公準への依拠によってこそ、言語は「あの大いなるクロノロジ-的連続性」(p.306.) から離脱することが出来たのであり、言語体系に内在的な歴史性の考察が可能になったのである。

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