一生けん命なヨギ・ヨギニのためのヨガ哲学―サトヴァ・ラジャス・タマス
ヨガをしているみなさんは、サトヴァ・ラジャス・タマスという3つのグナのことを知っているのではないかと思います。まず大雑把にその意味を説明すると、
サトヴァ=純性 ラジャス=激性 タマス=鈍性 です。
前の記事でも書きましたが、人間のすばらしい特性は、現実に疑いを抱く機能と真実を模索する機能です。ヨガを探求するあまり、向上心から一生けん命がゆえに、身の回りのなんでもかんでもを、サトヴァ(純性)で固めたいという気持ちに陥ってしまうことがあるでしょう。わたしがそうだったので、その気持ちはとても良くわかります。
でもそのせいで、家族や周りの人たちに対する不信感や敵対心が育ってしまっては、せっかくのサトヴァ(純性)が元も子もありません。無理やりサトヴァ(純性)に持っていこうとしても、ラジャス(激性)やタマス(鈍性)を変化させることはできません。
そこで今日は、どうやってサトヴァを育てていったらいいかというお話です。
サトヴァ(純性)とは何なのか?
まず、サトヴァという言葉の意味を考察してみましょう。純粋や本質を表すsatとtvaがくっついたものがサトヴァです。tvaはもともと傍(そば)や近いという意味がありますが、他の言葉にくっついて、名詞化=モノ化するという機能を持っています。satが純粋・本質だとしたら、satvaは純粋なるモノ、純粋に近いモノという意味になり、『モノ』の性質から離れることができません。
わたしたちが体験しているこの世界は過去のクオリティが集積した結果です。集積の傾向を変えるためには、結果の客観的なデータを集めることが必要です。
そこでサトヴァの他にもうひとつ、tvaがつく重要なキーワードがあります。仏教でもサンキャ哲学でも使う『タットヴァ』という言葉です。タットはthatなので、『そのようなもの』という訳になります。そのようなものって、どのようなもの?と、ニュアンスを解ろうとするとすごく難しいですよね。
タットヴァには『物事には思っているような意味はない』というメッセージが込められている
サンキャでは26(または28)の構成要素のことをタットヴァと呼び、仏教では、物質の正体としてのエッセンスという意味の『真実』としてタットヴァが使われます。なぜこんな重要な部分に一見曖昧な表現を使うのかというと、わたしたちの意識は、概念によってなんでも『意味づけ』をする傾向にあります。ですがその真実は『ただのそれ』でできているということを言いたいからです。
真実としては、あなたが思っているような意味はないということです。
そのタットヴァが織り成す世界での反応が『サトヴァ(純性)・ラジャス激性)・タマス(鈍性)』と呼ばれるものです。意味づけをすればするほど、純度が落ちて、反応が活発になり、最後は無意識的に意味が安定してしまうのがわたしたちの意識と物質化の間にある関係性です。
サトヴァ→特に意味なし (無に近い)
ラジャス→活発な意味づけ (刺激的)
タマス→意味に氣づいてない(鈍い)
最終ゴールがどこかはさておき、ヨガ哲学でも仏教哲学でも、タットヴァの本質に氣づきを促すマインドフルネスが重要なことはどちらも同じです。
サトヴァを育てるには、ラジャス・タマスを受け入れることから始まる。
そこでまず、今の自分がどんな状態にあるのかということを観察していくことから始まります。このときに焦って闇雲にサトヴァ(純性)と言われるものだけを摂取しようとしたり、ラジャス(激性)とタマス(鈍性)を過剰に拒否すると、かえってアンバランスが起こってしまいます。それは、この3つがわたしたちの意識活動と密接につながっているからです。
わたしたちの意識の中にある概念は、すぐに善悪を判断できるように機能しています。そこで、サトヴァが善でそうじゃないものは悪と捉えてしまうと、そういう行動を取ってしまうわけです。
それだとスタート地点で『ただのそれ』というタットヴァの前提から外れています。サトヴァ(純性)・ラジャス(激性)・タマス(鈍性)も『ただのそれ』から起こるものだということを、必ず覚えていなければなりません。
では意味がないから、今のままでいい、この状態を放っておいていいかというと、単純に考えてみてください。放っておいて困るのは、あなたただ一人です。過去の集積データに従って反応を活発に繰り返していると、それが固定化されて現状を変えること=健康状態や運を良くすることが難しくなります。
ラジャス(激性)・タマス(鈍性)を変化させるには、その存在を受け入れることから始まります。ラジャスやタマスの状態がどうやって発展したのかを観察し、受け入れれば受け入れるほど、『タットヴァ』の本質が理解できます。すると自然にサトヴァ(純性)の選択が取れるようになってきます。
必要なものが減ってすべてがタットヴァ『ただのそれ』となり、意味を失っていくのがサトヴァ
たとえば食べ物で言うと、わたしは限りなくヴィ―ガンに近いベジタリアンですが、野菜だけを食べて生きるというサイクルがわたしの中で安定しており、そこに楽しみや喜びがあります。それ以外の選択肢はなくていいということです。無理やりサトヴァを選択しているわけでもなく、この選択においしいというラジャスや、無意識的(鈍感)に繰り返す安定感というタマスが定着しています。
サトヴァな選択をすることに、特に毎日意味を感じていないということです。
この純粋な選択が、わたしの健康や免疫を保ってくれています。では反対に、わたしにはコーヒーが大好きで、毎日飲みたいという癖があります。氣をつけているので今はありませんが、昔は飲まないと頭痛がしたり、飲みすぎて動悸がしたり、身体が冷えたり、集中力が続かなかったりしたことがりました。困っていたのは、他でもないわたしです。
困るので辞めようと、コーヒーはタマス!ダメ!と、突然絶ってしまうことが何度もありました。だけどストレスでかえって困ってしまうわけです。そこで、なぜこのサイクルが定着しているのかを考えてみたのです。
タイに来るまでコーヒーは日常的には飲まなかった。タイで生産されている豆がおいしいから飲み始めた。おいしいオーガニック豆が身の回りにたくさんあるから。匂いが好きだから。カフェの雰囲気が好きだから。などなど。
それから、どうやってこれらの反応を減らしてくかを考えるのです。1日一杯にすること。デカフェを家に置くこと、代わりにお茶を飲むことなど。それらを続けていくうちに、健康や活動に支障が出なくなるので、1日一杯が定着してきます。そしてたまに忘れて飲まない日というのも出てくるわけです。
この忘れて飲まなかったが『サトヴァ』です。
良いからする、悪いからしないではなく、必要なものが減ってすべてがタットヴァ『ただのそれ』となり、サイクルが壊れて、意味を失っていくのがサトヴァです。
この仕組みを覚えておくと、自分にも人にも優しく、サトヴィックな生活を勧めていけるのではないでしょうか。非難せず、戦わず、『なぜそうなるのか』を困っている人に理論的に伝えて、一緒に考えてあげられるヨギ・ヨギニでいてください。
いただいたサポートは、博士課程への学費・研究費として、または息子の学費として使わせていただいています。みなさんのサポートで、より安心して研究や子育てに打ち込むことができます。ありがとうございます。