龍馬を超えた男、幻の宰相:小松帯刀
ヘッダーの写真は鹿児島の開聞岳。4年くらい前に行ったかな〜
さて、歴史が好きで調べてると、よく「もっと評価されていいのにぃぃ〜〜〜」ともどかしくなる人物と巡り合う事がある。
そんな人物の中で、私が最ももどかしく感じる人物が、江戸幕府から明治新政府に移り変わる中で活躍した、小松帯刀(たてわき)だ。
所謂、幕末において、小松帯刀は薩摩藩の家老として、藩主親子である島津久光、忠義に次ぐ地位にいた。部下には、西郷隆盛や大久保利通を筆頭として、五代友厚、寺島宗則、黒田清隆、吉井友実、三島通庸、大山巌などがいる。
言わば、倒幕を主導する薩摩藩のトップを張っていたのが、小松だった。
でも、ぶっちゃけ小松帯刀の知名度はそこまで高くないよね〜〜笑
私もここ3, 4年前までよく知らなかった人だったりする。
その知名度の低さから「幻の宰相」とも言われてしまうけど、今回は知られざる小松帯刀の魅力を紹介したい。
1. 薩摩の小松か、小松の薩摩か
小松帯刀は1835年(天保6年)、薩摩の名家に生まれた。名君 島津斉彬にその才能を見出されたのをきっかけとして、弱冠27歳の頃には薩摩藩の家老に抜擢されている。
家老となった小松は軍事、政治はもちろん、財政、教育、商工業などの分野で活躍する。そして何よりも、その優しい人柄から多くの人々から信頼されていた。
その活躍ぶりは、当時の志士の間で「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と噂されるほどだったという。
小松は薩摩藩の家老として、敵味方関係なく様々な人と交流をもち、信頼を勝ち取っていった。小松が多くの人から信頼を勝ち取った証拠として、以下のようなエピソードが残っている。
これは、イギリスの外交官であったアーネスト・サトウが自著で述べた小松の印象だ。まさに絶賛と言っていい評価だ。
また、薩摩藩と対立する立場であった徳川15代将軍、徳川慶喜からも信頼されていた。
これは、1864年(元治元年)に小松らが京都から薩摩に一時帰国しようとした際に公家の近衞忠房から送られた手紙を現代語訳したものだ。なお、一橋慶喜は徳川慶喜のことである。(この時はまだ将軍に就任していなかったため)
小松が慶喜から信頼されていること、また、公家からも大きく信頼されている事が伺える手紙となっている。
このように、小松帯刀は薩摩藩の顔として、江戸幕府や朝廷との交渉を円滑に進めていた。小松の部下である西郷や大久保は、実行部隊として活躍している。
2. 龍馬を見出し、龍馬に賭けた男
小松帯刀を語るとき、欠けてはいけない人物がいる。
その人物こそ幕末の風雲児として知られる、坂本龍馬だ。
龍馬は、浪人という自由な身分で、様々な人の間を取り持った人物として知られているが、その活動を資金面で大きくサポートしたのが小松だった。
小松は、勝海舟が創設した神戸海軍操練所が閉鎖され塾生だった龍馬たち30名を保護したり、寺田屋事件で龍馬が襲われた際は薩摩で匿うなどしている。
龍馬も小松を高く信頼しており、龍馬の考える明治新政府の参議筆頭には小松の名前があったと言われている。
上記の通り、龍馬と小松はお互いに認め合っており、薩長同盟の成立場所が小松の邸宅であったり、大政奉還のために2人で奔走したりするなど、この2人は意見を合わせ行動していたと考えられる。
(ちなみに、個人的には、西郷隆盛や大久保利通の意見は少し違っていたようだ)
3. 明治新政府でも活躍を期待されたが…
薩摩藩のトップとして、倒幕に大きく貢献した小松帯刀。
当然、明治新政府でもその手腕の発揮が大きく期待されていたが、持病が悪化し、1870年(明治3年)に36歳という若さで亡くなっている。
病気が悪化して動けない状況でも、周囲は小松の復帰を期待し、様々な人物から回復を願う手紙が届いたとのこと。
倒幕において薩摩藩を引っ張る存在だった小松だが、最後は病気によって静かな最後を迎えた。
龍馬のような劇的な最後でもなく、明治新政府にも貢献できなかった小松は、いつしか歴史上で忘れられた存在になっていく。
う〜〜ん、もどかしいな。
私個人の意見を書くと、小松帯刀の人を見る目や人の使い方はもっと評価されて良いと思ってしまう。
坂本龍馬という土佐脱藩浪士を見出し、島津久光と衝突ばかりしていた西郷隆盛の緩衝材となり、敵になった徳川慶喜からも信頼される小松帯刀。
すごい能力だ!!
もっと評価が高くなって欲しい。そんな願いを込めて小松帯刀について語ってみた。
<参考書籍>