散歩
散歩をした。
鬱に呑み込まれそうだったから、少しでもまともな人間になりたいんだろ、と己を鼓舞しながら気力を振り絞って外に出た。
隅田川に溺れに行って、結局びしょ濡れになるだけで帰ったこととか、お客さまが韓国の方で久しぶりに韓国語を使えるのが嬉しかったのに、3万でヤらない?と言われたこととか、odをしていた会社のトイレとか、思い出した。
思考が偏っていると、思い出すものもあまり良いものではなくなる。けれど、それらがあったからの今で、自分がんばってきたじゃん、生き耐えたじゃん、と立て直す。
あと、ゴミ捨て場で眠りに落ちて夜を越したらそのまま捨てられないかな、と見る度に考える。そして人間は最期は燃やされるけれど、骨は残るし可燃か不燃かどちらなのだろうと割と真剣に考える。未だに。
散歩をしていると、ひとの生活を感じられるから、だれかも生きていることを感じられるから、昔からなにがあっても少しだけ安心する。
ほんとうに一人で生きた時間や時期、瞬間があると、ひとは一人で生きられないことを痛感しませんか。
コンビニや居酒屋、いろいろなお店、それらもだれかがいるからで。手に取る商品もだれかがいるからで。すべてだれかがいるから。
でも、人生においてそういうひとたちと深く関わることはない。
だれかがいるから、生きているけれど、なんだか、もうよく分からなくなってきてしまった。
大切なひとたちを喪ったらわたしはわたしを続けられる自信がないけれど、きっとみんなは生きていく。
ひとにはひとの生活があって、それらはぼくではない。
親友と連絡し合うことはあれど、すべてを知ることなんて不可で、そのひとの生活や人生がある。その合間にいさせてくれること、なにかを共有してくれること、共感してくれること、それだけでとてもとても有難いことだ。
親も、学生の頃までは人生や生活の中心だったとおもうけれど、一人暮らしでそれなりに働いていれば、互いにそれぞれの日々を送るだけだ。たまにいろいろな話をしたり頼ったり帰ったり、くらいで。
知り合いたちは、うん。そもそも知り合い程度の人間に対して感情を注いでいられないので、はやくわたしのことなんて忘れてしあわせに生きていたらいいなとおもう。
生きることについて、365日ずっと考えない日が、本気で、ない。
知っているひとが先日また亡くなった。毎日だれかが生まれてだれかが死んでいるこの地球で、それは普通のことなのかもしれないけれど、いつになっても、だれでも、有名人でも、憧れでも、ほんとうに慣れない。
慣れるわけなんてそりゃないだろうけれど。
上手く感情を分けられる人間に、なりたい。仕事とプライベート、みたいな感じで。
いつになったら、死にたくない夜を過ごせるようになるのだろう。
ひとの喪失には弱いくせに、いつまでも自分を無かったことにしたくて必死だ。無理なのは分かっているけれど。
とりあえず、目の前にあるものを一つずつ、がんばる