逆算で生きるクリスチャン
こんにちは!たまごです。
すべての世代に聖書をわかりやすくつたえる。クリスチャンとして生活しながら思うことをブログに書き綴っています。
2021年、もう1か月すぎて2月になりましたね。今年、神様は私たちひとりひとりにどんなご計画をお持ちなのでしょうか。コロナの中で、新しい環境の中で、私たちにどんな恵みをあたえようと準備しておられるのでしょうか。
去年からはじまった非日常な毎日にだんだん慣れて、いつしか日常になっているかもしれません。今日は先の見えない未来についてクリスチャンはどう考えるべきなのか、語ってみたいと思います。
10年目クリスチャンがなかなか克服できなかったこと
私たまごは少しせっかちで、先読みしたくて、先取りしたくて、でも石橋は千回でも万回でもたたきたくて、その中でベストを絞って絞り出せるようにもとめる執拗さがある、そんな小難しい性格であります。
そんな私が神様の前でなかなか「任せます!」と言い切れなかった部分がありました。自分の未来、将来のことです。
クリスチャンになったばかりの頃はどうしても半年後の自分がどうなっているのかとても気になっていました。神様が私にご計画があるっていうんだから、それを神様が教えてくれれば半年後の自分のために逆算して準備できるのにとか、半年後に自分がどうなっているのかわかって安心できるのにとか思っていました。
今考えたら、まずなんで半年後だったのかもよくわかりません。笑 遠い未来じゃなくてもいいから、ちょっと先のことだけ、ちょこっと教えてよって気持ちだったのでしょう。
どこからか湧き出てくるモヤモヤ
このモヤモヤとした感情をよく聞く単語で表現すると、不安、心配、恐れ、思い煩い、という感じでしょうか。誰の心にもある感情ですよね。私の場合、将来を知ることで安心したくて、何かの確証がほしくて、恐れや心配へとつながっていました。
モヤモヤする感情の原因はそれぞれ違うと思います。そう思うことが悪いことではなく、人間のひとつの感情として神様がゆるされたものです。生きている間、このような感情とおさらばできる人はいないでしょう。
ある人はうまく付き合えるかもしれませんが、このような感情に疲れてしまう人もいます。人生の荒波の中で自分の心を守れるのであれば、または守っていただけるのであればどれだけよいでしょうか。
先の見えないモヤモヤからの脱出
10年目を迎えた今では、前よりはかなり自分の将来について神様に「任せます!」と言えるようになりました。どうやって克服し、モヤモヤからスッキリできたのでしょうか。
信仰というのは年数と比例して成長するものではなく、ただただ神様のタイミングとみこころ、あわれみによって成長します。信仰が成長するにあたり、土台になるのが「聖書のみことば」です。
新約聖書 マタイの福音書 6章 34節
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日に十分にあります。
このマタイの福音書にあるみことばを見てみると、こんな風に書いてあります。私は未来に対する不安や恐れ、心配があったのですが、「明日のことまで心配しなくてよい」と断言されています。
半年後を気にしていたけど、明日のことも心配しなくていいだなんて!半年先まで自分で先走らなくても、目の前や明日のことから神様にお任せすることができます。
よく見ると、34節の最初には「ですから、」とあります。私たちが明日のことまで心配しなくていい前提が書かれていそうです。見てみましょう。
新約聖書 マタイの福音書 6章 33節
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
何よりもまず神の国と神の義を求めるようにとあります。そして私たちがそうするのであれば、これらのものはすべて与えられるのです。これらのものとは何でしょう。
6章の最初からイエス様はいろんなことを教えられていますが、途中で心配の話が出てきます。もちろん心配しなくてもいいよとおっしゃるのですが、何を心配しなくてもいいかというと、イエス様を信じる人に必要なものは神様がすべて知っておられるからそこは心配しなくてもいいよというのです。
だからこそ、私たちの不安、心配、思い煩い、恐れを神様に任せ、神の国と神の義を求めることがクリスチャンには求められているのです。不安や恐れなどが私たちからなくならなくても、そのことを神様に任せることができます。
自分の力だけでがんばらないこと
私の恐れ、不安は先の見えないことからきていました。先のことが少しでも分かれば、逆算し、必要なものを知り、自分がベストをつくし、どうにかなると思っていたのです。自分ががんばればなんとかできると思っていました。
ですが、自分でコントロールできることにも限界があることを知りました。どうにもできないところがあります。半年後の未来、それがまさにそうだったのです。半年後、1年後、10年後、50年後、老後や死のその瞬間まで、私たちには何もわからないのです。
では私たちはそのむなしさの中で生きなければならないのでしょうか。そうではありません。近い未来ではなく、もっともっと先からの逆算することをオススメします。
どこから逆算するのか、答えは聖書にある
聖書は「終わり」について教えてくれています。ひとつは個人的な人の人生の終わり、そしてもうひとつはこの世界の終わりについてです。この二つの終わりから逆算する人生こそが、むなしさから脱出するポイントです。
イエス様がまた来られる時から逆算
聖書では、イエス様が2000年ほど前に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、復活されたとあります。そしてそのイエス様は一度天にのぼられたわけですが、また来るね!とおっしゃっています。イエス様がまた来られることを待ち望むこと、その時をどう準備するのか逆算して生きることができます。
私たちクリスチャンにとって、イエス様は自分の罪の代わりに十字架にかかってくださった方ですから、とても大事な方です。大事なお客様を迎える気持ちで毎日少しずつ準備ができたらなと思います。
自分が召される時(死)から逆算
私たちは今日も生かされている理由があります。わかるものもあれば、わからないものもあるはずです。今日、自分ができること、忠実に行うべきことは何でしょうか。生きている間に自分に任されていることは何か探しもとめてみてください。
そして一つ一つ忠実にできたときは素直にそのことを喜び、できなかったのであればまた気を取り直し、時には悔い改めて明日からチャレンジしてみましょう。その繰り返しがまた次のステップにつながっていくと思います。
また、自分のタラント(賜物・得意なこと)を活かし、生きることも考えられます。自分がこの世で過ごす間、どんな風に生きたら神様は喜んでくださるのか、自分に与えられた神様からのプレゼントを見つけるのもオススメです。
クリスチャンはこのように目の前にその日あるやるべきことや心配事、労苦はあるけれども、イエス様がまた来られるその時に希望をおいて、そこから逆算して自分がどう生きるべきなのかをしっかりと考えられる生き方ができると思います。
ぜひその時をイメージしながら、希望を持ち、明日のことを心配しすぎず、今日私たちに起こること、会うべき人、やるべきことに忠実に行っていくことができるクリスチャンとなれるようお祈りします!