リベラリズムとリバタリアニズムにおける「教育」の位置づけ
政治哲学と教育政策の関連について考えたい。上の図における「保守」という表現は、個人の価値観や自由に介入する「パターナリズム」として理解し、ここではそのように表記する。
自由主義はリベラリズムと呼ばれ、自由至上主義をリバタリアニズムと呼ぶのが通例である。リバタリアニズムとはつまり、自由を徹底的に追い求め続けるがゆえに、政府という国家権力は個人の価値観にも一切介入しないが、市場経済への介入も拒否するため格差が生じ、自己責任社会になりかねない思想である。しかし、私はイリッチの著書『脱学校の社会』を読み進める中で、このリバタリアニズムとリベラリズム、パターナリズム(保守派)の関係性は、殊「教育」においては当てはめることができないだろうと強く思うようになったのである。
要するに、リベラリズムは個人の価値観についての介入を徹底的に拒否するはずであるが、「教育」だけが唯一リベラル社会において積極的に各個人の価値観に介入することが許された、最後の手段なのである。最も不思議な点は、この介入がリベラル社会では、むしろ積極的に「推奨」されることにある。これは逆説的に「リベラルな社会における教育政策は、極めて強いパターナリズムであり、リバタリアニズムにしたがった教育政策(つまり教育しないこと)は、最もリベラリズムに近い」と言っても過言ではない。極めて矛盾に満ちた奇妙な表現ではあるが、現状を端的に表しているようにも思える。やはり、教育はリベラル社会における唯一認められた正当な介入方法となっている。図に当てはめて教育政策のみを整理しようとするとき、パターナリズム(保守派)はナチズムや戦前日本のような超介入教育主義(教化主義)、リベラリズムは介入教育主義、そしてリバタリアニズムを自由主義とする方が正確なのではないか。
また、経済的自由、格差原理の観点からも同じことが指摘できる。リベラルな社会では教育の普及は積極的に行われるが、一方で人生の成功確率に占める割合を教育や学校(つまり学歴)があまりにも高くなってしまうことによって、むしろ貧困や格差が固定化するのである。だから、むしろ学校制度それ自体を撤廃してしまったり、あるは学歴差別禁止法をつくることによって就職、再就職で非大卒者が貧困になることを防いだりすること(教育政策をやめてしまうこと)の方が、逆に格差是正や貧困解消に寄与するのである。学校の選抜配分機能は縮小させなければならない。現在のリベラリズムは、むしろ学歴、学力競争のスタートラインを平等に整えることを重視するあまり、格差を生み出す構造を問えないままである。格差生産装置の正体とは、格差を解消するための普及させたはずの「学校」そのものだったのである。これも同じく、逆説的に「リバタリアニズムに従った教育政策が最もリベラリズムに近く、リベラルな社会の教育政策は格差を生じさせる」と言うことができるだろう。