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善と有との実在的同一性について トマス・アクィナス『神学大全』第一部5問1項

トマス・アクィナス『神学大全』の第一部第五問から第六問を読んだ。昨年に第四問までを読んだので、今回はその続きだ。翻訳は山田晶『世界の名著 続5』(中央公論社)所収のものである。
ここでは善について探究されており、第五問の方では善一般について、第六問の方では神の善性について論じられている。本稿ではこれらの探究のなかで最初の問題、第五問第一項「善は実在的に有と異なるか」を取り扱う。なおここでいう「善」とはbonum、「有」とはensの訳語である。
今日は先に議論の要約を示してから、その後で「実在的」と「概念的」という言葉の意味について考えようと思う。

1.議論の要約

「善と有とは実在的に同じである」と考えた場合、以下の異論が想定される。

異論1:ボエティウスは『デ・ヘブドマディブス』において「私は諸事物において、それらのものが《善いもの》ということと、《存在している》ということとは、別であることを認める」と述べている。
異論2:有は形成される(有に善が附加される)ことによって「善いもの」となるのだから、善と有とは実在的に異なる。
異論3:善にはより多くとか、より少なくという度合いがあるが、「有る」ということには度合いがない。

これら異論への対論として、アウグスティヌス『キリスト教の教理』における「われわれは有るかぎりにおいて、善きものである」という見解が提示される。

以上を踏まえてトマスは「善と有とは実在的には同じものであり、ただ概念的にのみ異なる」という自身の解答を示す。
まず善とは一般に「欲求されうるもの」であり、それは完成されたものであるかぎりにおいて「欲求されうるもの」となる。そして、あらゆるものはそれが現実的に存在するかぎり完成されているので、あらゆるものが存在者(有)であるかぎり善である。ゆえに、善と有とは実在的に同じものである。ただし、有には「欲求されうるもの」という意味は含まれていないので、善と有とは概念的には異なるのである。
こうした立場からトマスは先に示した異論への解答を述べる。

異論答1:本来的意味における有とは現実的に存在することをいうが、現実態とは可能態との関係においていわれるものである。そこで、有は実体的存在によって可能態から区別されることで「端的な意味での有」といわれる。これに対して、実体に附加される現実態については「或る意味で存在する」といわれる。
また、善とは「完全なるもの」「欲求されうるもの」を意味することから、「端的な意味での善」とは究極的に完成されたもののことである。これに対して、未だ完全性を獲得していない善は「或る意味での善」といわれる。
したがって、事物は実体的存在によって「端的な意味での有」といわれると同時に、存在者であるかぎりにおいて「或る意味での善」といわれる。これに対して、事物は究極の現実態によって「或る意味での有」といわれると同時に「端的な意味での善」といわれる。
ゆえに、ボエティウスの言葉は「端的な意味での善」 と「端的な意味での有」とについていわれたものと解釈されねばならない。「端的な意味での善」とは最終的な現実態としての善であるが、「端的な意味での有」とは最初の現実態としての有である。
異論答2:善とは「端的な意味での善」という意味にかぎっていえば、究極の現実態によって形成されたものをいう。
異論答3:善は知や徳のような現実態が附加されていく度合いに応じて、より多くまたは少なく善であるということがいわれる。

さて、トマスが「善と有とは実在的には同じものであり、ただ概念的にのみ異なる」というとき「実在的に」(secundum rem)と「概念的に」(secundum rationem)とはそれぞれどのような意味をもつのか。ここら辺があまりピンと来ていないので少し考えてみようと思う。

2. 善と有との実在的同一性について

まず「実在的」の方だが、secundum remというときのremはresの対格であり、その意味するところは「物」である。そうすると「実在的に同じ」というのは「物としては同じ」という意味であり、トマスのいう善と有との同一性とは物としての同一性である。
とはいっても「物としては同じ」という説明の意味するところがまだ不明瞭だ。そこで手始めに「ソクラテスは有(存在者)である」という命題について考えてみよう。この命題が意味するのはソクラテスがソクラテスとして現実に存在しているということであり、これはソクラテスが実体である(それ自体として存在している)ことによって可能態から区別される。いうなれば「有る」ということはそれ自体として一種の完成(現実に存在している=現実態にある)であり、ソクラテスは存在するだけで完成されている。簡潔にいえばここには「存在者=完成」という存在理解が表れている。

では次に「ソクラテスは善である」という命題について考えてみよう。先の命題に比べて、この命題はいくらかの解釈が生じる。たとえば「ソクラテスは賢い」とか「ソクラテスは美しい」とか、あるいは「ソクラテスは裕福である」という含意でもって「ソクラテスは善である」ということは可能である。こうした具体的な善さ(賢い、美しい、裕福)は一種の「欲求されうるもの」(appetibile)であるが、これらは「完成されたもの」(perfectum)であるかぎりにおいて「欲求されうるもの」となる。

だがここで「善=完成」かつ「存在者=完成」であるから「存在者=善」である、と結論付けるのは早計だ。イコールの記号で結ぶと何か説明できたような気になってしまうが、ここでトマスの考えている同一性は無差別な同一性ではなく「実在的な」という限定的な意味における同一性であるのだから。

再び「ソクラテスは善である」の命題に戻ると、このとき「賢い」「美しい」「裕福」といった諸々の善は、ただの単純な善に何らかの価値(知性的、造形的、経済的な価値)が附加された特殊な善である。ここで「欲求されうるもの」としての善に目的テロス(終局)という観点を加えると、特殊な善は単純な善と比べてより目的に近い、より望ましいものであるといえる。逆に単純な善は特殊な善と比べてより目的から遠い、あるいは目的への志向性が希薄であるといえる。善をどれほど実現しているかという点から比較すれば、単純な善は特殊な善よりも少なく善を実現しており、特殊な善は単純な善よりも多く善を実現している。あるいは単純な善は特殊な善に対して可能態であり、特殊な善は単純な善に対して現実態である。

このとき単純な善(可能態としての善)をトマスは「或る意味での善」と呼んでおり、これは「端的な意味での善」(究極的・最終的な善)と比較されている。「端的な意味での善」が究極的・最終的とみなされるのは、それが終局テロスに達しているからであり、この終局に対して「或る意味での善」は最初の善なのである。
少し俗っぽい例を考えてみると、初心者の人への「伸び代しかないね!」という言葉や、失敗した人への「あとは上がるしかないね!」という励ましは「或る意味での善」を語っているように思う。あるいは「生きているだけで偉い!」というのも「或る意味での善」であろう。その含意は「これから善くなる」という可能性であり、比喩的にいえば「或る意味での善」とは善のスタートラインである。そして「実際に善くなった」というゴールが「端的な意味での善」である。

これに対して「端的な意味での有」(現実態としての有)は実体的存在と付帯的存在という存在論的先後関係におけるより先の、最初の存在である。存在においてより先とみなされるのは実体的存在であり、付帯的存在(属性)とは実体に付随する仕方で存在している。いうなれば存在においての第一義的存在とは実体的存在であり、付帯的存在は第二義的存在である。このとき第二義的存在の方をトマスは「或る意味での有」と呼んでいる。

整理すると「端的な意味での善」、「或る意味での善」、「端的な意味での有」、「或る意味での有」という四項が見出される。そしてトマスが「善と有とは実在的に同じである」というとき、その善と有とは「或る意味での善」と「端的な意味での有」である。換言すると「或る意味での善」と「端的な意味での有」とは同一であるが、この同一性は「実在的」という限定を受けている。

そこでresは「物」であるという最初の話に戻る。「或る意味での善」と「端的な意味での有」とは物として同じ、ということになるのだが、これはいかなる意味なのか。たとえば「ソクラテスは端的に有である」というとき、これはソクラテスが実体的に存在していることを意味する。わかり辛いのは「ソクラテスは或る意味で善である」というときで、このときソクラテスは具体的な善を完成させているわけではない。だが、ソクラテスがソクラテスその人として生きている、その形を成しているという意味で、最低限の完成は遂げられている。このような意味で「ソクラテスは或る意味で善である」といわれる。
そうなると「ソクラテスは或る意味で善である」という命題は、結局のところ何か特別なソクラテスの善さについては語っておらず、「ソクラテスがいる」という程度の意味しか語っていないことになる。ゆえに「ソクラテスは端的に有である」と「ソクラテスは或る意味で善である」とは等しいのであり、その同一性(実在的同一性)を積極的に規定すれば「現実に物としての形を成しているという意味で有も善も同一である」という意味になるだろう。

本稿の議論は第五問第一項の話なのだが、実をいえば後の方(第五問第六項)でトマスは「善は基体的に有と同一であるかぎりにおいては、十の範疇によって区分される」(215頁)という言い方をしている。「基体的に同一である」というのはsubiectum(基体)において同じであるということであり、subiectumを「物」と解せば話はもっと分かりやすいかもしれない。あるいは「善も有も同一の基体(主語)に述語づけられるという意味において、善と有とは同一である」という説明がよりスマートだろうか(216頁〔注9〕を参照)。

3. 善と有との概念的差異性について

もしかしたら簡単なことを長々と考え過ぎたのかもしれない。だがそのおかげで「善と有とは概念的に異なる」の意味は楽に理解できそうだ。ここでいう「概念的に」secundum rationemのrationemとはratioの対格である。ratioというのも多義語であり、やや意訳的になるがここでは「意味内容」と解してみようと思う。

たとえば「ソクラテスは有である」といったとき、その意味内容としてはソクラテスが存在していることしか表していない。言い換えれば「ソクラテスは有である」という命題は「ソクラテスは背が高い」とか「ソクラテスは色白である」とか、そういった附加的な意味内容を含んでいない。逆に「ソクラテスは背が高い」や「ソクラテスは色白である」という附加的な命題の方は「ソクラテスは有である」という意味内容を含んでいる(前提している)。

次に「ソクラテスは善である」といったとき、「或る意味での善」について述べているのだとしたら、先程考えた通りこの命題は実質的に「ソクラテスが存在する」という意味内容しか含んでいない。つまり「ソクラテスは善である」は「ソクラテスは有である」と同一であり、この同一性をトマスは実在的と呼んでいたのだった。
しかし善にはより大きな善と、より小さな善とが考えられるのであり、本来的には大きな善の方が善と呼ばれるに相応しい。たとえば、健康になりうる人と、現に健康である人とでは、現に健康である人の方が健康の名に値するであろう。このように、可能的な善と現実的な善とを比較した場合、現実的な善の方が意味内容における第一義的な善であるといえる。トマスの表現に即していえば、概念的に最初の善は「端的な意味における善」である。
ここで、実在的に最初の善は「或る意味での善」であったことに注意したい。つまり善の先後関係は実在においての場合と、概念においての場合とで逆転するということだ。

以上を踏まえて「ソクラテスは端的に有である」と「ソクラテスは端的に善である」という命題を比較してみよう。前者はソクラテスが存在していることしか表していないが、後者はソクラテスが何らかの目的を実現した状態にあるということを表しており、後者の方が附加的な意味内容を含んでいることがわかる。比喩的にいえば、実在という天秤に善と有とを乗せると両者は均衡を保っているが、概念の天秤にかけると善の側にガクンと傾くようなイメージだ。
ゆえにトマスが「善と有とは概念的に異なる」というとき、その意味するところは、有は「何かがある」という意味しかもたないが、善は「単に存在している以上の目的を実現している」という意味をもち、善の方が有に対して附加的な意味をもっている。このように理解することができるだろう。

以前シェリングの『ブルーノ』を読んだときに、実在論と観念論とについて少し書いた。「実在的」と「概念的」の区別もこの系譜だなあと、今回書き終えて考えている。仮にギリシア語で考えた場合、「実在」の方には自然ピュシスを対応させて、「概念」の方は……ratioだしロゴスでいいか?などと思いつつ、少しズレたような気もする。
アリストテレス風に考えると「自然において」(physei)という表現は「われわれにとって」(hēmin)という表現としばしば対比的に用いられる。これを「客観的」と「主観的」という意味に解せば(言葉が近代的だが)、「実在的」と「概念的」との説明に援用可能に思える。つまり善と有とは客観的には同じであるが、主観的には異なるという風に。だがこうした説明の仕方は胡散臭くて好きになれない。
好き嫌いの話でいえば「或る意味での善」という考え方は結構好きだ。これは結局、なんら積極的な意味をもたない最低限の善でしかないのだが、それでも善ではある。そうすると、ただ生きることしかできない人生にもまだ希望が残っている気がしてくる。楽観的な拡大解釈かもしれないが、そんなことを思った。

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