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ルネサンスの新プラトン主義

新プラトン主義と聞いて、私がイメージするのはプロティノスに代表される古代ローマ末期に成立した哲学思潮である。時代的には後3世紀に興り6世紀まで存続した学派なのだが、今日話すのは15世紀の新プラトン主義についてだ。
澤井繁男著『イタリア・ルネサンス』(講談社現代新書)を読んだ。表題の通り、本書はイタリアのルネサンスについての本であり、その主題はルネサンスを「宇宙との一体感をめざすコスモロジー的視点を核とした文化運動」と捉える点にある(208頁)。
新プラトン主義の中でも、イタリア・ルネサンス期の、特に15世紀フィレンツェで活発となったプラトン研究をフィレンツェ・プラトン主義と呼ぶ。本稿ではこのフィレンツェ・プラトン主義について『イタリア・ルネサンス』を参考にしながら学習した内容をまとめてみようと思う。

1.時代背景

それではまず確認作業として、イタリア・ルネサンス期におけるギリシア哲学研究の成立背景を調べてみたい。澤井はこれを三期に分けて説明している。

第一期――14世紀末クリュソロラス、フィレンツェに渡来。サルターティの尽力によりギリシア語学校が設立される(1397年)。15世紀初頭ギリシア語学習の本格化、ギリシア学者が育つ。ギリシア古典の翻訳。
第二期――東西公会議(1438~39年)、コンスタンティノープル陥落(1453年)。ビザンツからすぐれた学者が渡来(ベッサリオン、ゲミストス・プレトン、アルギュロプロスら)――プラトン派とアリストテレス派をめぐって対立論争が起こる。
第三期――批判的ギリシア研究が生育し、フィレンツェ・プラトン主義が興る。ルネサンス文化の黄金期。

『イタリア・ルネサンス』153頁

クリュソロラスは元々ビザンツ帝国の外交使節であったらしい。当時ビザンツはオスマン帝国からの侵略を受けており、東ローマは西ローマへ救援を求めていた。フィレンツェの書記長官(都市国家の内政・外交を担当する役職)であったサルターティがどのような経緯でクリュソロラスを知ったのか、詳細は分からなかった。
サルターティよりも先にクリュソロラスとの面識をもったイタリア人としては、グアリーノ・ダ・ヴェローナという教育者がいる。彼はフィレンツェのギリシア語学校設立より以前に自らコンスタンティノープルに赴き、クリュソロラスからギリシア語を学んでいた(57頁)。これを踏まえると、クリュソロラスはそもそも西ローマにおいてすら知られる高名な文人であったとみるべきかもしれない。いずれにせよ、ルネサンス期の知識人の研究意欲を物語るエピソードである。
さて、ビザンツ帝国は結局1453年コンスタンティノープルの陥落により滅亡してしまう。これによってギリシアの知識人がフィレンツェに亡命してくるのだが、実際はビザンツ滅亡より前、東西公会議の前後には亡命が始まっていたようだ。フィレンツェ・プラトン主義との関係において特に重要なのはゲミストス・プレトンであり、後述するプラトン・アカデミーの設立はコジモ・デ・メディチが彼の講義を受けたことを契機とする。
ここではフィレンツェ・プラトン主義成立の背景として、ビザンツ滅亡を契機とした文化流入があったということに留意したい。ギリシア語文献を読むにしても、そもそも当時のイタリア人は(南イタリアのごくわずかな地域の人を除いて)知識人でもギリシア語が読めなかったそうだ。そこにクリュソロラスがギリシア古典研究の素地を作り、プレトンがプラトン主義的方向性を与えたと解してよいだろう。

2.プラトン・アカデミーの設立

フィレンツェ・プラトン主義成立の直接的な契機とは、コジモ・デ・メディチによるプラトン・アカデミーの創設である(1463年)。アカデミーと聞くとなんだか立派な研究機関を想像してしまうが、実際のところこれは知識人らによる私的な集まりで、場所はメディチ家の別荘が使われていた。
プラトン・アカデミーはいわば在野の研究サロンとでも呼ぶべきものだが、これは大学(スコラ)の研究機関ではないということが重要である。「当時の大学は、大学としての役割は果たしてはいたが、知の中心は、大学に期待のできない知識人たちが集うアカデミーに集中しており、活発な議論が展開された」のであり(61頁)、プラトン・アカデミーとはそうした在野アカデミーの典型である。だが、なぜ知識人たちは大学に期待できなかったのだろうか。
単純化してしまうと、この場合の大学とはアリストテレス主義的なスコラ哲学を意味する。プラトン・アカデミーよりも前の時代になるが、たとえばペトラルカ(1304~74年)におけるアリストテレス主義への不満を澤井は以下のように説明する。

「単なる人間」でなく「人間的人間」、また「善く生き、幸福に生きること」をめざして人間は成長していくのを本来的と考えるモラリスト・ペトラルカは、霊魂をも自然学の対象とした即物的なアリストテレスに親近感を抱かなかった。ペトラルカは理念的な生き方を説く求道者プラトンのほうに惹かれたのである。

『イタリア・ルネサンス』20頁

ペトラルカの考える人間とは種としての生物学的な人間(homo)ではなく人間らしい人間(vir)であり、そうした人間らしさをギリシアやローマの古典の中に見出したのだろう。このとき、古典文化とキリスト教との対立が問題になるが、ペトラルカはプラトン主義を土台とすることで両者の総合が可能になると考えたようだ。本書ではペトラルカのこうした態度をキリスト教的人文主義と呼んでいる(22頁 ; 85頁)。なお、ペトラルカが利用できたラテン語訳のプラトン作品は限られたもの(『ティマイオス』の一部、『メノン』、『パイドン』)であり、その解釈もアウグスティヌスの影響下にあった点は留意すべきである。
キリスト教的人文主義の精神はプラトン・アカデミーの知識人たちにも継承されていた。その中心的な課題は神と人間との問題であり、常套句を用いれば「人間の発見」がなされたということになろう。これに関してはもう少し詳しく、マルシーリオ・フィチーノ(1433~99年)とピーコ・デッラ・ミランドラ(1463~94年)の哲学をみながら考えていきたい。

3.フィチーノと魔術思想

フィチーノとピーコは共にプラトン・アカデミーの重要メンバーである。フィチーノの方がピーコよりも30歳年上で、彼らを師弟関係とみなしてよいだろう。
さて、プラトン・アカデミーがメディチ家の別荘であったことは先に述べたが、これは元々当主であるコジモが語学に堪能であったフィチーノに与えたものであった。メディチ家の庇護の下、フィチーノはギリシア語文献の翻訳・研究を行い、フィレンツェ・プラトン主義における主導的な役割を果たした。
フィチーノの業績について、いくつかピックアップすると『ヘルメス文書』翻訳(1463年)、『プラトン著作集』翻訳(1463~68年)、プラトン『饗宴』注解(1469年)、プロティノス『エネアデス』翻訳(1484年)などが挙げられる(94頁)。
……なるほど、プラトンとプロティノスはいい。だが最初の『ヘルメス文書』翻訳はいったい何が起きたと思ってしまう。
『ヘルメス文書』とは後3世紀のエジプトでヘルメス・トリスメギストスによって著されたと信じられる書である。その思想内容(ヘルメス主義)というのは「太陽を中心的存在として、生命の秩序的連鎖や事物間の共感・反感、つまり大宇宙と小宇宙の照応・感応を大事とする有機的思想」であるのだが(95頁)、これはキリスト教からすれば異端の魔術思想だ。
ちなみに、フィチーノによる『ヘルメス文書』翻訳の影響は多岐にわたる。それはたとえば錬金術(パラケルスス)、科学(コペルニクス)、芸術(ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ)の領域にまで波及する。いずれにせよ、本稿ではとても扱いきれない問題であるので関心のある読者は『イタリア・ルネサンス』の第3章、あるいは同じく澤井繁男著の『錬金術――宇宙論的生の哲学』(講談社現代新書)を読まれたい。
さて、フィチーノが魔術思想に関心を寄せたのはなぜだろうか。澤井は以下のように分析している。

彼は知識と宗教が根源的に一致するとみなし、魔術もキリスト教と対立するのでなく、魔術をも包含したところに真のキリスト教が確立されるべきだとしている。彼の時代にキリスト教の威信が墜ちていた証左であろう。
フィチーノには魔術とキリスト教を対立的に捉えるのでなく、魔術の知でキリスト教を補完しようというねらいがあった。ある意味で、キリスト教と異教の知との和解である。キリスト教を魔術の知をかりて涸渇から救おうとしたのである。

『イタリア・ルネサンス』95頁

フィチーノはあくまでキリスト教徒として、キリスト教の危機(戦争、疫病、教会の腐敗)を魔術思想によって救おうとした。彼が魔術思想に見出したのは生命主義ともいえる考え方で、万物に生命が宿るとするアニミズムの発想である。アニミズムは汎神論を招きかねないという意味で一神教から敵視されがちである。だがフィチーノは太陽に生命や活力の根源としての力を見出し、これを神と同一視する太陽崇拝的な思想を『太陽の不滅について』(1471年完成、82年出版)という著作で展開している。
この著作で太陽の光は神の本性を顕わにし、天と地上を結び付けると考えられている。そして世界は神、天使、霊魂、質、量の五階層に分類され、人間はその中で霊魂の位置、すなわち世界の中間に位置づけられる。この中間の位置から人間は上昇することも、下降することも可能な存在者とみなされている。この点を踏まえて、フィチーノの哲学を人間中心主義的であるとみなすことも可能だが、やはりその根底には天と地、あるいは大宇宙と小宇宙との照応ともいうべき魔術的発想があるように思える。

ところで、そもそも太陽を神秘主義的表徴として解釈することは哲学的に可能なのだろうか。プラトン哲学において太陽は『国家(ポリテイア)』における「太陽の比喩」のように特別な地位にある。光としての太陽が世界に浸透していくイメージから、ここに魔術的な照応・感応の関係を見出すことは(拡大解釈であるが)可能であろう。
これに対してアリストテレス哲学において太陽(星)は不滅の生命体ではあるが、天を運行するという点において変化を被る存在者とみなされる。つまり、不滅かつ不動の存在者よりも存在論的に格が一つ落ちる。こうしてみると、アリストテレス主義よりもプラトン主義の方が魔術思想との相性がよさそうだ。

4.ピーコと自然哲学

フィチーノの哲学は大学のような公の場で表明すれば異端視されかねない、危険な思想であった。実際、彼は教皇インノケンティウス8世から異端として告発されている。そして、弟子のピーコも師の異端的思想を継承し、より人間中心主義的な方向へと発展させている。
ピーコの思想は「融和の哲学」とも呼ばれ、プラトン主義とアリストテレス主義のような対立する諸学の一致を目指すものである。こうした「対立物の一致」という主題はフィチーノにもみられるが、更に前の世代だとニコラウス・クザーヌス(1401~64年)において顕著である。調和、融和への希求はイタリア・ルネサンス期の哲学において共通してみられる思想傾向であり、より積極的には芸術作品の中にこのモチーフを見出すことができるだろう。
さて、ピーコは自らの哲学を世に示すために1486年にローマで公開討論会を企画する。やはりというべきか、この討論会はインノケンティウス8世から異端の疑いをかけられ中止となる。ピーコは逃亡先のフランスで捕まり、投獄の憂き目にあうが、メディチ家の尽力により釈放される。師弟揃って同じ教皇に目を付けられるとは、見上げた根性という他ない。
討論会で彼は人間観と自然観との刷新を訴えたかったようで、その内容は『人間の尊厳についての演説』というタイトルの原稿として残っている。人間観について、その主張は人間の自由意志を称揚し、人間が決意次第で神的な存在になりうるというものである。この辺りは強烈だが、フィチーノと似たり寄ったりの印象だ。
自然観に関する主張では魔術を「悪霊どもの業」(黒魔術)と「自然哲学の絶対的完成」(白魔術)との二つに分けて考えている。気になるのは自然哲学を白魔術とみなしている点だが、端的にいえば自然哲学(白魔術)とは自然の探究を目的としており、ピーコはこの知によって自然が人間にとって利用可能なものになると考えていた。ここら辺は(よくも悪くも)近代的な発想である。
ピーコの自然哲学(白魔術)の思想は後代の、たとえばジャン・バッティスタ・デッラ・ポルタ(1535~1615年)においては自然魔術(magia naturale)とも呼ばれる。自然に伏在する生命力(神の力)を引き出す魔術師は、単なる被造物の枠に留まらない作用主体としての人間であり、ここに近代的な人間観の萌芽が見て取れる。

そろそろ話をまとめよう。まずフィレンツェ・プラトン主義はビザンツ帝国の滅亡に伴う東ヨーロッパの哲学思潮の流入を歴史的背景としてもつ。西ヨーロッパの中世スコラ哲学においてはアリストテレス主義が盛んだったこともあり、ここにプラトン哲学との摩擦が生じる。
だが、スコラ哲学に限界を感じていた西側の知識人にとって、むしろこの事態は歓迎された。特にメディチ家の支援の下で開かれたプラトン・アカデミーでは、公的研究機関としての大学とは異なる、在野の知識人集団によってプラトン研究が進められた。
その中でも特に著名なのがフィチーノとピーコである。両者はプラトニズムを基調とした神秘思想を展開し、その哲学はヘルメス主義のような魔術思想への傾倒と人間中心主義的な性格を特徴とする。
フィレンツェ・プラトン主義における人間とは、神の下に留まる被造物ではないという意味で、中世哲学的人間観とは異なる。そして自然に働きかける主体という意味では近代哲学的人間観に接近している。だが、その一方で自然を無機的なモノとみなしているわけでもなく、有魂的に捉えている点では非近代的でもあり、過渡的人間観である。それは自らを世界の中心に定めながら、神とも自然とも感応しあう魔術的なコスモロジーに根ざした人間観であったと本稿では結論付ける。

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今回メインで参考にしたのは澤井繁男の『イタリア・ルネサンス』であるが、同著者による『ルネサンス』(岩波ジュニア新書)も併読していた。「ジュニア新書」だからといって内容的に見劣りするものではなかったので、どちらを読んでもいい勉強になると思う。
最後にどうでもいい話を一つ。ラファエロの「アテナイの学堂」において、中央で議論している二人がプラトンとアリストテレスであることは有名だろう。ところで、絵の中の二人は各々本を抱えているのだが、それが何の作品かはご存知だろうか。プラトンが『ティマイオス』でアリストテレスが『ニコマコス倫理学』である。
初めてこのことを知った時は「えっ『ティマイオス』なの?もっとほら……『パイドン』とかの方がよくない?」と思っていた。だが『ティマイオス』の宇宙霊魂説なんかはフィチーノやピーコも好きそうだなぁと、本稿を書き終えて印象を新たにしている。

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