ドゥンス・スコトゥスの個別化原理
何かについて考えて、考えた結果ひどく単純な問題にぶち当たることがある。そうした探究のどん詰まりとして、たとえば哲学における「存在とは何か」という問いがある。そして似たような問題として「これとは何か」という問いがあるように思う。
「これとは何か」という問いは言葉にしても不可解だ。強調するなら「“これ”とは何か」という問いである。「これ」といったときの「これ性」、thisnessといえばわかりやすいだろうか。「これ」への問いは哲学的には個体、個物、個別者などの言葉で問われるのが一般的かもしれないが、今日の哲学者はそういう問題を考えた人だと思っている。
八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』(平凡社新書)を読んだ。本書は中世哲学の入門書であり、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの哲学を主軸に解説を行う。この哲学者の名前を本書の中で八木はヨハネス・ドゥンス、または単にヨハネスと呼んでいるので、本稿もこれに倣って以後彼の名をヨハネスと呼ぶことにしよう。
さて、中世哲学における個体の問題は普遍との関係において論じられる。これは個別化原理(principium individuationis)と呼ばれる問題であり、今日はヨハネスの個別化原理について考えよう……と思っていたのだが、正直難しくてよくわからなかった。それでも学習の経過を記録し、引用などを残しておけば今後の探究に役立つだろう。そういう意味で今回の文章は、ヨハネスの個別化原理に関する備忘とラフスケッチのような考察である。
1.アリストテレスの実体論
ヨハネスの個別化原理について学ぶのに先立ち、哲学史的背景としてアリストテレスとトマス・アクィナスの学説について確認をする必要がある。まずはアリストテレスの実体論から個体の問題について考えていこう。
『カテゴリー論』や『形而上学』において、アリストテレスは実体の意味を大きく二つに分けている。簡潔に説明すると、実体には「他のものの述語とはならない“これ”と指し示しうる主語としての存在者」と、「他のものの述語となる類、普遍、形相としての存在形態」との二義がある。このうち前者が第一実体(prōtē ousia)、後者が第二実体(deutera ousia)と呼ばれる。
説明を補足しよう。たとえば「ソクラテスは人間である」といったとき、この命題は主語が「ソクラテス」、述語が「人間」である。「ソクラテス」も「人間」も、それ自体としてあるもの、すなわち実体として存在するものであり、これは付帯的に存在するものとしての属性とは区別される。
そこで更に、「ソクラテス」と「人間」という二つの実体についての区別を考えると、「ソクラテス」は「これ」として具体的に指し示せるもの、「これなる或るもの」(to tode ti)として存在している。このような具体的な存在者は、質料と形相とからなる結合体である。これに対して、「人間」は「ソクラテス」の「なにであるか」(to ti esti)という存在の仕方を表しており、「ソクラテス」にとっての形相である。
端的にいえば、アリストテレスの実体概念は「これ」という存在者の側面と、「なに」という存在形態の側面との二側面から考えられている。改めて述べれば、「これ」としての存在者が第一実体であり、「なに」としての存在形態が第二実体である。第一、第二という区分を設けている以上、実体には存在論的序列が与えられており、アリストテレスは「これ」としての存在者をより無条件的、勝義的に存在するものとみなしていることがわかる。
こうした第一実体と第二実体との区別が、個別化原理の議論の下地となっている。すなわち第一実体(結合体)が個物として、第二実体(形相)が普遍として考えられ、個物はいかにして個物として区別できるのかが問題となる。換言すれば「ソクラテスは人間である」というとき、「プラトンも人間である」し、「アリストテレスも人間である」ということができるのに、どうして「ソクラテス」を「ソクラテス」として同定できるのかが問題になるということだ。
2.トマス・アクィナスの質料起源説
いかにして個物を個物として区別することができるのか。奇妙な言い回しになるが、これは「個物の個別性」とでもいうべき問題である。この問題の解決のために、トマス・アクィナスは質料が個物の個別性の起源であると考えた。個物に対する考え方に関して、トマスはアリストテレスの質料形相論を踏襲している。だが、その由来が質料にあると考えるのはどういうことなのだろうか。
個物の起源を質料と考えると、なぜ形相ではないのかという疑問が生じる。上記引用における「精神的アイデンティティー」というのは、たとえば個人の人格や霊魂のことであり、質料起源説はこうした個別的な形相が身体的差異によって形成されるのかという問題を生じさせる。
試みに「ソクラテスは人間である」という命題において、「ソクラテス」の「ソクラテス性」は「ソクラテスの身体」に由来するという説明が可能かということを考えてみよう。まず「ソクラテス」というのは特定の個人である。そして「人間」というのは(アテナイ人でも古代ギリシア人でも呼び方はどうでもいいが)不特定多数の人々である。不特定多数の人々から特定の個人への限定、すなわち多から一への限定は「いつ」「どこで」といった時間と空間とにおいて可能となる。ゆえに個人としての限定(個別化)は、時間的・空間的な制限を被る現象としての身体(質料)に由来する……という説明は可能だろうか?
どうもしっくりこない。追加の資料を参照してみよう。トマスの個体論で注意すべき点として、稲垣良典は「彼は個体化の問題を質料的事物の領域に限って論じたということ、つまり彼が論じたのは同一の種に属する質料的事物の数的多様性の問題に限られるということ」を指摘している(上智大学中世思想研究所『中世思想原典集成18 後期スコラ学』19頁〔平凡社〕)。
要するに、トマスの個体論は存在論的に限定された問題を取り扱っている。それはアリストテレス風にいえば「これなる或るもの」(to tode ti)についての問題であり、たとえば、なぜ人間という種に多様な個人が属しているのかということが問題となる。重要なのは、ここに霊魂の問題は含まれていないということだ。換言すれば「ソクラテスの霊魂」のような個別的形相は問われないのであり、この点が次に考えるヨハネスとの大きな違いである……のかな、と思っている。
3.ヨハネスの形相性起源説
トマスは個物の起源を質料であると考えた。この説明自体は、多から一への、すなわち不特定の多数の人間からソクラテスという個人を同定するのに十分である。八木の表現を借りると、一人一人の「かけがえのなさ」は質料起源説で説明が可能である(118頁)。
ではヨハネスは何を問題としたのか。
ヨハネスもアリストテレス存在論の概念を用いながら個別化の問題を考えていることがわかる。ここで注意すべきは、質料と形相とが実在性(realitas)の二面性として考えられている点である。すなわち質料は受容的可能性の実在性として、形相は質料の可能性にはたらきかけて何らかのかたちを実現する原因となる実在性として考えられている(112頁)。
こうした区分は受動と能動、可能態と現実態、そして質料と形相といった、ある種伝統的な二元論である。そのどちらも実在的であるのだが、ヨハネスの個別化原理はこのうちの形相の“側”に立つらしい。つまり、形相それ自体によって個別化が説明されるのではない。形相だけで事足りるのなら、たとえば「人間のイデアによってソクラテスが存在する」とか「人間の普遍概念をアプリオリに知っているから個人を識別できる」とか、そういう説明で済むだろう。だがそういう理解でいいのだろうかと、どうも納得がいかない。
厄介なのは形相性(formalitas)の概念であろうか。
ここで考えられている形相性とは可能態としての質料に対するはたらきかけであり、これを一種の定立作用と解釈できるだろうか。そうすると、形相性の定立によって個体が個別化するというのは、実際どんな作用であるのだろう。抽象からの具体化、あるいは普遍からの特殊化とみるべきか。
先程引用した稲垣の解説を参照してみよう。
「このもの性」すなわちhaecceitasとは「これ」という意味のラテン語“haec”をもとにした造語である。個体を「このもの」たらしめている「このもの性」とは、たとえば「人間」という種的形相に対して更に上位の類概念、「動物」のような形相概念ではないだろう。個別化原理としてのhaecceitasが「存在もしくは形相の究極の実在性」であるのなら、やはり形相それ自体ではなく、はたらきとしての形相性が問題になっているように思う。そして、アリストテレスの実体論のように、ヨハネスも存在の区分というか、階層的な整理をしている。そこでは個体も普遍も実体として認められているが、第一であるのは「究極の実在性」としての個体なのであろう。
また、渋谷克美はヨハネスの個別化理論を以下のように解説している。
共通本性(natura communis)とは、たとえばソクラテスやプラトンのような個々人に共通している「人間であること」という本性のことである。このとき、共通本性と形相性とはいかなる区別をすべき概念だろうか。形相性を個体の起源として考えるなら、「ソクラテスが人間であること」また「プラトンが人間であること」というように、個人を特定する「である」のはたらきとして形相性を考えればよいだろうか?そうなると、個々人に共通する人間性(共通本性)は、「ソクラテスがなにであるか」という個別性とは別の実在性、すなわち普遍性として考えられるかもしれない。
もう一つ。個別化には共通本性としての「なにであるか」だけでなく、個体的差異と個的存在性とが必要になるということだが、形相性(実在性)について考えあぐねている私としてはrealitas individualisの方に一層の関心がある。
一先ず、考究に役立ちそうな箇所をピックアップしたが、これ以上考えるのならば『命題集註解(オルディナティオ)』を直接読むべきだろう。今回の学習では、私の習熟度的にそこまで読みこめないので、形相性に関する疑問は一旦保留しておこうと思う。
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わからないことはたくさんあるが、考えるべきキーワードのようなものは拾うことができた。今日のところはそれでよしとしよう。
本稿で取り扱ったのは『中世哲学への招待』第三章「個別性について」の内容である。本書はそもそも中世哲学の入門書であるのだから、個別化原理の話は全体の一部分にすぎない。個別化原理の話以外でも、神の存在証明、三位一体論、霊魂論、自由意志論、宇宙論などのような、いわゆる定番ネタはしっかり揃っている。学習者にとっては安心である。
だが本書を真に特色づけるのは副題にある〈「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために〉という視点であると思う。それは日本人からみて、ちょっとわかりにくい、共感しづらいと思えるような「ヨーロッパ的思考」を日本人の視点から相対化していく研究態度である。その意味で、単に中世という時代的枠組みを気にせず、広い意味での西洋哲学入門書として本書を読むこともできるだろう。
なお、今回『中世哲学への招待』と併せて参考にした『中世思想原典集成18』は、中世ヨーロッパを中心に、神学や哲学の文献を集めて翻訳したシリーズの一冊である。その中で稲垣良典による総序と、渋谷克美による『命題集註解(オルディナティオ)第二巻』の解説から引用を行った。