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「他者の靴を履く」
ポップな表紙に騙された。なかなかに「やっかい」な本と向き合う事になってしまった。難解な言葉が並んでいるわけではない。それでも章、いや項ごとにピットインして錆びた頭をリペアしていかなければ前に進まない。
著者については、以前から様々なメディアへの露出を通してそれこそ漠然と「sympathy」を感じていた。その時の人による「混沌とした現代で前に進むための叡智」としての「empathy」の必要性。
シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったらどうだろうと想像してみる知的作業と言える。
情動による「sympathy」に対し、作業である「empathy」はそのスキルを磨くことができる。そのために必要なのは一体何か。心理学や脳科学の側面から、あるいは金子文子(この本で初めて知った獄死したアナーキスト)、サッチャー元首相らを例にとり説き明かされる。
「共感」のうちに読み進めていくと、終章近くで「empathy」にまつわるダークサイドが開示される。ニーチェ曰く「エンパシーを働かせる人は憧憬の罠に陥る」。上からの支配の維持・強化を助け、抑圧的な社会に必須のものとなりかねないことを。
だから、エンパシーと合わせてアナーキーがセットとして必須なのだと著者は説く。アナキストのエマ・ゴールドマンは下記のように書いている。
アナキズムは人間に自己意識をもたらす唯一の哲学である、神、国家、社会は存在せず、それらの契約は無効であると主張し続ける。なぜなら、それらは人間の服従を通してのみ達成されるからだ。アナキズムは、自然の中のみならず、人間の中における生の統一の教師である。個人と社会的本能は対立しない。ちょうど心臓と肺が対立しないように。一方は貴重な生命のエッセンスの器であり、他方はそのエッセンスを純粋に濃厚に保つ成分の収納場所なのだ。個人は社会の心臓、つまり社会的生活のエッセンスを保存しており、社会は生活のエッセンスーそれは個人だーを純粋に保つための成分を分配する肺である。
エマ・ゴールドマンはアナキズムは個人主義の哲学であり、社会調和のセオリーであると結論づけている。著者は、アナーキズムとエンパシーについてこう表している。
個人と社会が対立概念でないように、アナキズムとエンパシーも対立しない。むしろ人間の心臓と肺のように、調和的に融合するものであり。アナーキック・エンパシーこそが純粋で濃厚な生のエッセンス(それは個人だ)を死なせない場所に社会を変える。
恥ずかしい話だが、「アナーキー」(それは若い頃からある憧れを持って心の中にあった)という言葉は社会からドロップアウトする、アウトローとしてのイメージとともに醸成されていた。まさに印象での浅はかな共感。それとは真逆の社会にコミットメントする、あるいは社会を構築する重要なキーだったと気づかされ、それだけでも俯いてしまう。
この世の中を覆うさまざまなさまざまな不寛容や、それが生む分断について考える時、この「アナーキック・エンパシー」をどこまで身につけられるか(それはとりもなおさず家族や友人、あるいは見知らぬ隣人でも、より身近な人と人との関係から始まるのだが)。残りどれだけ生きられるか、頭がしっかりしているうちはどうもずっと考えなくてはいけないようだ。
追記:この本のタイトルは、著者の子どもが通う英国の中学校で出された「エンパシーとは何か」という問題に「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えたらしいという事からきている(「ライフ・スキルズ」という授業!)。日本の学校でもそんな「考える」カリキュラムが増えることを殊に思う。