「気」にしないということと「気」にするということ
今月3投稿目、通算34投稿目になります。
今日は、「気」をめぐることについて書きたいと思います。
「病気」とは文字通り「気」を病むことですが、きょうは「病気」とまではいかなくとも、「気」にしてしまう状態について書こうと思います。
「気」にしてしまうとは、「気」になってしまうということも含みます。
これを読んでるみなさんはnoteを書いておられるか、読んでおられるかの人だと思いますが、それはnoteが、あるいはnoteに関するなにかが「気」にかかってのことだと思います。
ひとそれぞれ気にしていること、あるいは気になってしまうこととがあるでしょう。それはストレッサーをめぐるあれこれかもしれないし、将来への不安や、現世をうまく泳いでいけない自分の不器用さかもしれないし、こじれてしまった彼との関係についてかもしれません。
そこで「気」にする、あるいは「気」になるとはどういうことなのか、また「気」にしないほうがいいこと、「気」にしたほうがいいことということについて私見を述べて、最後に自分なりに考えた処方箋のようなものを提示してみたいというのがこの文章のおおまかな流れです。
よかったら御一読をお願いします。
①「気」にしないことのすすめ
「気」にすれば、車のドアがバタンと閉まる音も、窓の外から聞えてくる知らない人のハミングや口笛のような音ですらノイローゼの種のなりうる。
自分の家の隣がコンビニの駐車場に代わってしまい「こんなに頻繫にドアの開け閉めがあって気にならないなんてことがあるもんか!」というひともいるだろう。学校のいじめとかもそうであるが「気」にしない式で事態を乗り切るには確かに難しいこともある。いくつかのことは「気」にしない式ではなく抜本的な対策が必要なのかもしれない。しかし「気」にしすぎということも確かに存在する。これは多少ネガティブなことに偏執狂的にのめりこんでしまう性格の人にあることで、実はわたしもたまにそうなる。
しかし、度を超えると実生活に支障が出てくる。
そこで、ネガティブなベクトルの「気」になってしまう状態の正体を考えてみましょう。
これは私見ですが、ネガティブなベクトルの「気」になってしまう状態とは、わたしが傷つく恐れという「気」か、もしくは、わたしの将来がより苦しくなる予想・予感という「気」のこのどちらかの「気」が膨らんでるときじゃないでしょうか?
ためしに、日常のネガティブなベクトルで「気」になってしまうシチュエーションで、このふたつのいずれとも全く関係のない「気」になってしまうが
どのくらいあるでしょう?
息子の将来が心配だ、は、終局的にわたしの将来がより苦しくなる予想・予感になるでしょうし、誰かを傷つけてしまう恐れは、わたしが傷つく恐れに通じているでしょう。
たとえば、パン屋さんの会計カウンターで仕事をしている女子が、たまに店に来る超イケメン男子に緊張していたとします。そうすると、この女の子には「わたしが傷つく恐れ」という「気」が膨らみすぎてしまっているのかもしれません。
こういったときに、外的現実のほうをどうにかできるのは有力政治家とかでないと難しいでしょう。
まさか、そんなことで店を辞めるわけにはいかないでしょうし、「イケメン入店禁止!」なんて立て札は立てられません(立てても入ってくるかもしれません)
もちろん、すぐ対策が立つようなことであれば、外的現実に働きかけるのも有用です。たとえば水道の蛇口のゆるみが「気」になってしまうとかであれば、ホームセンターに出かけて、部品を買ってきて直せばいいのです。
しかし直接外的現実に働きかけて調整することが事実上ムリな事柄のいくつかは、わたしが傷つく恐れという「気」か、もしくは、わたしの将来がより苦しくなる予想・予感という「気」のいずれかが膨らみすぎているということを自覚するだけでもひょっとしたら違うでしょう。
こういったやり方は、学校でのいじめとか、あまりに程度の甚だしいものには意味がないかもしれません。クラスメートに蹴られたり叩かれたりという重い症例では、こういったやり方は無効でしょう。しかし、それほど重くはなく、しかも外的現実に直接働きかけることが事実上ムリなことに対しては、上述のふたつのうちのいずれかの「気」が膨らみすぎていることを自覚してそのいずれかの「気」を膨らましすぎない、つまり、あまり「気」にしないことがおすすめです。
②「気」にすることのすすめ
①と正反対の意見になりますが、ある種のことがらは「気」にしないと荒れ果ててしまい育たないのです。実は今年父が亡くなってしまったのですが、父は家庭園芸をやる人で、団地のベランダのプランターには見事な花が咲いていたのです。しかし、父が亡くなってしまうと、全然様相がかわってしまいました。土と空気と水と太陽光線があれば、コンクリートの割れ目からでもどこまでも伸びる雑草とははなしがちがうのです(わたしを含めた残された家族にはこれをどうする知識も物理的余裕も今のところないのです)
つまり、ある種のことがらは、手をかけ、暇をかけ、「気」にしてやらないと育たないのです。
しかしもちろん、手をかけ、暇をかけ、「気」にしてやったところで、自分の思う通りに育つとは限りません。こういったことは関係的現実について特にいえるでしょう。いくら、こっちが「気」にしたところで利害が相反すれば別離があるかもしれませんし、こっちが誰かを「気」にかけたのは、それに対して見返りを要求すれば、こっちが、相手を(または、まわりを)自分の思う通りにしたかっただけのこともあります。相手の欲求に鈍感だったり無視していたことにあとから気づくこともあるでしょう。
ただ、やはりある種の事柄は、手をかけ、暇をかけ、「気」にしてやらないと育たないのです。
もちろん過干渉だったり、やり方が、あまりに理に叶っていなければ、ダメになる場合もあるでしょう。
noteをやっておられる方々も、何かこれは育てたいということがひとつはあるんじゃないでしょうか?
ある種のことは「気」にしないと育ちません。
そこで、「気」にすることをおすすめします。
「気」にして、こころを砕いて三次元的現実に実らせるべきでしょう。
③「気」に病むとはどういったことか?
「気」にしたもののいくつかは、外の現実に自分が考えているのとはほど遠い展開をしたり、また外の世界において展開そのものがなかったりすると、自分の中で空回りして苦しくなることが多いでしょう。恋愛感情や心配ごとといったことで、こういった経験がある人は多いのではないでしょうか。しかし、そういった苦しい自分の中での空回りも、そのうちいくつかは時間の経過にしたがって自然消滅するかしぼんでしまうことが多いかもしれません。
しかし、そういった経過を経ず「気」に病んでしまうことがあります。
では、ひとが気に病んでしまうのには、どういったパターンが…また、どういったことなのでしょうか?
わたしが考えるには、つぎの四つのいずれかであることが多いと思われます。
(1)傷つく(または、傷つける)恐れ、不安
(2)傷ついた(または、傷つけた)記憶(のぶり返し)⇒心的外傷の記憶
(3)(1)と(2)が繰り返される予想を伴う不安
(4)人生で面倒や障害が増える予感、今より将来が悪くなる予感・予想
この四つが考えられます。
こういったことも、重い症例ですと「気」にしないといったことでは乗り切れませんが、日常限度を超えないレベルなら方策はあるでしょう。
そこで、次の段落では、「気」にしないための方策について考えたいと思います。
④「気」にしないための方策
では、気にしないための方策について私が考えたところです。
これも四つあります。
(1)自分とまわりの等身大的現実を(一旦にせよ)認める
…最初のほうで出てきた、イケメンさんの来店に緊張する、パン屋の会計カウンターで働く女子のはなしになりますが、イケメンさんがカウンターに並ぶと、自分が傷つく恐れという「気」がバンバンに膨らんでしまう等身大の自分と、わたしが苦手にしてるにもかかわらず店にやってくるイケメンさんという相手の等身大を(一旦にせよ)認める。ひょっとすると超心理学とかで、もっといい方法があるのかもしれませんが、あるショックな状況で等身大の現実を認めることは、ある意味、心身に一番負担が少ないのです(ただこれも、身内が暴漢に殺されたみたいな重い症例になりますと、この通りではないかもしれません)
(2)休む、離れる、放っておく、かかわりを減らす、絶つ
…ノイローゼとかに近い症例を呈しているんであれば、もちろん休息をとったほうがいいでしょうし、近所でバイクのエンジンをうるさくふかしている若造がいれば、自分を過信して警察官よろしく干渉するより放っておくほうが実際的な場合もあるでしよう(五年も経たないうちに、そんなことには飽きるでしょう)また、まずい感じになってたり口論が絶えない相手とは距離の取り方を変えるとか少し離れてみるという手もあります。これらは能動的に攻めて、自分の思いに近い形に現実を変えようとするより、とにもかくにも(少なくとも一旦は)後ろへ下がる方策です。
(3)あまりヒマにしすぎない
…(2)の休むと矛盾しますが、暇な時間が多すぎるということも、よくないことを考える一因になるようです。もちろん休息と安静こそが必要なひとには当てはまりませんし、ヒマこそがしあわせというんであれば、またこの通りではありません。
(4)すこし難しいことに挑戦してみる
…あんまり小さなことが気にかかって困るというんであれば、まぁ、元々神経質でデリケートで繊細なのかもしれませんが、もしかすると、いまやってる仕事や日常の課題が自分の本来のレベルより簡単すぎることも考えられます。そうすると、ちょっと自分には難しいくらいのことにチャレンジしたり始めてみるのはどうでしょう?神経質で繊細も芸術方面のことを選択すればすればプラスになるかもしれません(ただ、芸術をはじめ、作品つくる系のプロジェクトは、あるレベルからはクソミソにいうひとも増えてくるし、自分よりよい作品をつくってる人や、売れてる人や高い評価を得てる人には嫉妬の嵐だし、運よく高みに昇りつめれば孤独が待ってるかもしれませんし、いいことなんかひょっとすると少ないかもしれませんが)
いずれにせよ、日常の課題が易しすぎると、それも小さいことが「気」になってしまう一因になるかもしれません。
少し大きめの課題に体当たりして小さな「気がかり」をふきとばしましょう!(これも、もちろん病気とか老齢とかで、そんなことは到底できないムリの効かない、またはムリしないほうがいい人には当てはまりません)
(あとがき)前々回の記事では、これで今年は最後の投稿になるでしょうと予告し(あの予告のせいか定かではありませんが、12月は、今日までのところ、いつもの月に増して、ダッシュボードは閑古鳥状態)前記事では、次回は会社辞めたこととnoteをはじめたことについて書くかもしれませんなどと予告して、案の定今回全然違う内容を書いてしまいました…もう、予告通りにはあまりならないんで、8割がた次投稿が完成してるとかじゃなければ、次回予告は基本止めようと思いました(すみません)
いまわたしがやっている派遣バイトは(今年、会社を辞めて、派遣バイトなんかをやるハメになっています)、貧乏くじばっかりひかされることもあるのですが、最近、記事を書けといわんばかりに心身負担の少ない現場続きというラッキーが続いているんで(サンタさんのプレゼントでしょうか?)、休みの今日、記事を書いてしまいました。
いい歳して派遣バイトなんかやってると、「気」に病むことも多くて、仕事の行き帰りの電車の中ではうなだれ気味のことも多いのですが、しかし、それがかえってこのような記事に結実するという妙なことになっている次第であります。
今一度、今回の記事の内容を整理しますと、「気」になってしまうというのは、ネガティブなベクトルなら、自分が傷つく恐れという「気」か、もしくは、自分の将来が今より苦しくなる予感や予想という「気」のいずれかが膨らみすぎていることが考えられるというのが第一段落。しかし「気」にしないと育たないものがあると述べて、放置していても勝手に伸びる雑草と、手入れをしないと荒れてしまうプランター植物の違いを例にあげた第二段落。「気」に病むとはどういうことかを、その代表的な4パターンを述べたのが第三段落。では、小さなことを「気」にしないための方策はどういったものがあるのかを、私なりに4つ述べたのが第四段落。
もちろん、こういったことは、学校でいじめを受けているとか、ストーカーに命をねらわれてるとかいった重い症例には無力かもしれません。しかし、そこまでいかない比較的小さな「気」になってしまうには意味があるかもしれません。
もし、小さなことにやたらに囚われてネガティブな方向へ「気」にしてしまい、すべりまくってる毎日であれば、ここに書いたようなことを思い出してみるのもよいかもしれません。もし、そういったことに悩まされているなら、さっと一度読んで終わりというのではなく、そういった時に何度でも参照してみてください。
長い文を読んでいただきありがとうございました。