『月獅』第3幕「迷宮」 第14章「月の民」<全文>
これまでの話は、こちらから、どうぞ。
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「月の民」(1)
レルム暦六三五年四月、王国に激震が走った。
「天は朱の海に漂う」との星夜見がオニキス副星司長によってなされた。流星が流れ、天卵が生まれてからちょうど二年が過ぎた春で、カイルは十七歳、シキとキリトは十二歳になっていた。
二年前、白の森の南端にあるカーボ岬から、天卵は海に没したとレイブン隊が報告していた。それを覆す星夜見に王宮は騒然となる。事の真偽を確かめるべく、ダレン伯が辺境警備軍を率いて海路探索に向かうことになった。
王宮は浮足立っていた。
回廊で、広場の片隅で、各々の執務室で、三々五々に集まって議論したり、ひそひそと密談したり、まことしやかで不確かな憶測が飛び交っていた。そのような折にシキは、星夜見士のダンとロイが月夜見寮の不穏な動きについて話しているのを耳にした。
天卵のことは、『黎明の書』に「孵りしものは、混沌なり、統べる者なり」と書かれていることしか知らない。天卵から生まれた者は、王国に混乱をもたらし、国を乗っ取るのではないかと恐れられているらしい。カイルやキリトと知り合う以前のシキは、誰が王様になろうと、どうでもよかった。ラザール様のお役に立つことにしかシキの関心はなかった。だが。偶然にもカイルに出遭い、キリトに星の話をするようになった。自分のようなものが王子様方と席を同じくする。村にいたころには考えられなかったことだ。父さんと母さんが導いてくれているのだろうか。
カイル様は王位につくつもりはないとおっしゃる。
「王宮という鳥籠ではなく、シキのように、父母といっしょに食卓を囲むような民の家に生まれたかったよ」と。
シキには、王宮の窮屈さはよくわからない。返すことばが浮かばず黙っていると、
「畑を耕したことも、シキのように空腹に苦しんだことも、盗賊に襲われる恐怖も、生きるために卵を盗んだこともない。書物のなか、空想のなかでしか世を知らぬ。吾は空虚なのだよ。だからこそ、この目と足で確かめてみたいと願うのだ」
後宮にいたころはほとんど翡翠宮から出たことがなく、立宮して少しは自由になったが、それでも藍宮と図書寮を往復するぐらいだと苦笑される。
「星夜見の塔にも登ってみたいものだ」
「ラザール様にお願いしましょう」
シキが身を乗り出すようにして提案すると、静かに首を振られる。
「申し出はうれしいが、ナユタに止められるだろうね」
なぜに、とシキは振り返ってナユタをうかがう。
最初の出会いで刃を突き付けられた恐怖もあり、シキはナユタが苦手だ。
「バランスの問題です」
ナユタは細い目でシキを見据えていう。
「バランス?」
「星夜見寮と月夜見寮は、昔からいざこざが絶えません」
星夜見士のダンとロイも話していた。月夜見が何か企んでいるのじゃないかと。星夜見の皆は、ことあるごとに月夜見の動きを警戒している。
「カイル様が、今、星夜見の塔を不用意に訪ねられると、月夜見寮の不興をまねくばかりか、星夜見がカイル様にくみしたとあらぬ憶測を呼ぶことになるでしょう。わかりますか」
シキには政治はわからない。が、ナユタが何を案じているのかはぼんやりとわかった。
それにしても、なぜ、星夜見と月夜見はいがみあうのか。
シキは月夜見について、ほとんど何も知らない。月の運行を観察しているというくらいだ。なぜ季夜見府には、星夜見寮と月夜見寮のふたつの役所があり、それぞれに夜見の塔があるのだろう。どうして月夜見寮は星夜見寮を敵視しているのだろうか。
「わからないことを、わからないからと目を閉じてはいけないよ」
ラザール様はいつもおっしゃる。
まず月夜見のことを知らねばならないと、シキは図書寮に足繁く通い、『月世史伝』という古い史書を見つけた。
それは書架の奥の奥で埃を積み、まるで隠されるようにあった。鞣し革を被せた背表紙はかろうじて形を維持していたが、息をころして扱わねば、たちまち歳月の彼方へと崩れおちる魔法でもかけられていそうだった。
『月世史伝』はかなり古い書物で、古代レルム文字で記されていた。
シキには古代レルム文字は読めない。諦めて閉じようとしたとき、風が頁をめくった。木の葉が舞い上がるようにぱらぱらと数頁がめくれ、ぴたりと止まる。挿絵なのか図なのか判然としないものが目にとまった。古代の壁画ほども簡略化されていないが、象徴的な図案のようなものが描かれていた。
中央に縦長の長方形があり、上部が半円になっている。下部には幾重にも輪が描かれ、その軌道上に小さな円がいくつか点在していた。円は白と黒で塗り分けられていたが、左半分が黒で右半分が白、猫の爪か三日月のようなものもある。魔法陣かと思ったが、しばらく眺めていてシキは、月の満ち欠けを表しているのではないかと考えた。古い月夜見の宿図だろうか。頁を繰ると、他にも地図のようなものがある。文字が読めないことには、やはり、挿絵だけで推測するにも限界がある。
「まだ居たのですか。もう閉めますよ」
当番のものがランプをかざして近づいて来た。
図書寮は貴重な書物が蔵されているため火を嫌う。ランプや火燭は置かれておらず、日が陰ると閉館される。シキは時の経つのを忘れていた。
そうだ、星夜見の塔に銀水を届けなければ。今宵もラザール様は塔にお籠りだろう。
「天は朱の海に漂う」との星夜見がなされて以来、屋敷にお帰りになられない日が続いている。できることならばラザール様に『月世史伝』を解読していただきたいが、これ以上ご負担をかけるわけにはいかない。銀水を届けるついでに『月世史伝』のことをお伝えし、古代レルム文字を読むにはどうすればよいかをお尋ねしよう。
シキはそっと『月世史伝』を閉じ、慎重に書架に戻すと、塔をめざして小走りに駆けた。赫い月が行く手を照らしていた。
「月の民」(2)
レルム・ハン国の王宮は六芒星の形をしている。その北の頂点に月夜見寮はある。背後にはノリエンダ山脈が聳え、月夜見寮は王宮の北を守護する重要な砦でもある。一方、星夜見寮は南の頂点にあり、レルム海を一望し、海上からの襲撃を見張る。ふたつの寮は星と月の運行から王国の命運を占うとともに、守りの要でもあった。
シキは辞書を片手に『月世史伝』の解読に励んだ。ラザール様からは「史伝を持ち出すわけにはいかないだろうから、わからない箇所は書き写しておいで」とおっしゃっていただいた。シキを悩ませたのは、単語の語尾がさまざまなことだ。おそらく語尾の変化形なのだろうと推測をつけても、どんな意味に変化するのかがわからない。辞書も薄く主要な単語しか載っていない。それにどうやら現代のレルム語とは文のつくりが異なるようなのだ。一文がどこで終わっているのかを示す記号も見当たらない。海図のない海に放りこまれたようだった。
まだわずかしか解読できてはいないが、レルム・ハン国がこの地を治める以前、ここには月を信仰する「月の民」という古い民がいたことはわかった。シキが最初に見た絵は月と交信するための「月の塔」だった。いにしえの忘れられた民である月の民の史書、それが『月世史伝』であった。
遅々として進まない解読に疲れると、シキは月の塔の図をながめた。そういえば、月夜見の塔も屋上に半球の天蓋をもつ。月の塔と形が似ているとシキは思った。
その日は、蔵書の点検があるからと昼過ぎに追い出された。図書寮に籠りっきりだったので、昼の陽がまぶしい。『月世史伝』のことで頭がいっぱいだったからか、気づくと見慣れぬ塔の横にいた。ここはどこか、と辺りを見回していると、ふいにバシャリと頭上から水が降ってきた。ひとつに束ねた黒髪がびしょぬれになった。額からぽたぽたと滴がたれる。あわててシキは書写した紙束を前垂れの下にいれ、塔から離れようとした。
ぎいっと鈍い軋みを立てて扉が開き、衛兵が現れた。
「おまえは星童か」と尋ねるので首肯すると、
「水をかけて申し訳なかった、詫びがしたいと、塔の住人が申している」
「すぐに乾きます。それより、ここはどこですか」
「なんだ、迷ったのか。ここは東の砦にある巽の塔だ。エステ村領主のイヴァン様が幽閉されている。ひと言謝りたいそうだ。いいから、ついて来い」
衛兵はくいっと顎をしゃくり、背を向ける。シキはしかたなく従った。
なかは小窓がいくつかあるだけで薄暗かった。外は汗ばむくらいの陽気だったが、石造りの塔のうちは冷やりとしていた。明るい戸外から入ったため視界が白くかすむ。ようやく目が慣れると、ラザール様よりは若い壮年の男が立っているのに気づいた。身なりから貴族とみえる。
「エステ村領主のイヴァンだ。水をかけて申し訳なかった。めったに人が通らぬものだから、確認もせず盥の水を捨ててしまった。風邪をひいてはいけない、これでよく拭いなさい。温かい飲み物をいれよう。アチャの実茶は、いかがかな」
「月の民」(3)
イヴァンと名乗った男性は低いがよくとおる声で微笑みながら布を差しだすと、奥に消えた。シキが渡された布を手に呆然と佇んでいると、すぐに盆をもって戻って来た。壁際に暖炉がある。その前に木製の大きな卓があり、椅子が六脚ならんでいた。男は盆を卓の上に置くと、暖炉に火をくべる。シキは棒立ちのまま、イヴァンのようすを目で追った。
「捕らわれの身だから枷でもはめられていると思われたかな」
火を熾しながらイヴァンが振り返る。シキが黙っていると、衛兵が太い声を響かせた。
「イヴァン様は罪人ではない」
シキはイヴァンと衛兵に視線を泳がせる。捕らわれているのに、罪人でないとはどういうことか。
「といっても、塔から出ることはできないのだがね。それ以外は自由にさせてもらっている。まあ、掛けなさい」
シキに暖炉の前の席をすすめる。
「そなた、名は何という?」
「シキです」
「シキは、なぜ私が捕らわれているかわかるか」
「よくは……わかりません」シキは肩をこわばらせる。
「では、天卵を知っているかな」
「『黎明の書』の予言と、二年前に生まれたことくらいなら」
イヴァンはシキの蒼い瞳を見つめ、ふっと息を吐く。
「二年前に天卵を生んだのは、私の娘だよ」
石の壁にことばが沁みこむ。暖炉で薪がはぜる音がした。
「二年前に娘のルチルは天卵を抱いたまま、カーボ岬から海に沈んだ。レイブン隊が確認したはずだった。だが、今になって『天は朱の海に漂う』との星夜見があった」
星童のシキなら当然知っていることだ。
「『天』とは天卵を指し、天卵の子は南の海のどこか孤島で生きているのではないか」
イヴァンは暖炉の炎に目をやる。
「それが此度の星夜見に対するおおかたの見方だ。それゆえ、私が巽の塔に拘束されている。ルチルと天卵の子をおびきだすために」
唇の端をひきつらせ、自嘲をひっかける。その瞳に苦渋がにじむ。
「ほら、冷めぬうちに飲みなさい」
うながされるままにシキがカップに手を伸ばす。前垂れの下に抱えていた紙片が一枚床に落ちた。あわてて拾おうと立ち上がると、残りの紙束が石の床に散らばった。
「む? これは古代レルム文字か。ラルムスコンセラシエテイヒ……七の月に嵐が起こり、か」
一枚を手にとりイヴァンが読みあげた。
「古代レルム文字が読めるのですか」
膝をついて紙を集めていたシキが驚いて顔をあげる。
「ご祈祷に必要だからね」
「ご祈祷?」
「白の森は知っているかな」
イヴァンは立ちあがり、椅子に腰かけながら問う。
「月の民」(4)
「西の国境にあって、白銀の大鹿が森の王だということだけですが」
拾い集めた紙束を卓の上でまとめ、シキも腰かけた。
「白の森の周りには四つの村があって、森の恩恵を受けている。わがエステ村はその一つで森の東にある。白の森に人は入ることはできないのだよ」
「どうしてですか」
「森が拒むのだ。入ろうとすると、枝やツルが伸びてきて排除される。代わりに遥拝殿で祈りを捧げ、森の恵みをわけていただく。その祝詞は古代レルム語で書かれていて代々の領主に受け継がれている」
「では、エステ村の人は皆、古代レルム語がわかるのですか」
「村人たちは祝詞を聞くだけだから、古代レルム文字を読むことはできない。呪文のように思っているだろうね。ただし、四村の領主は祝詞に記されている文字の読み方や意味を親から一子相伝で学ぶ。祝詞にある言葉ならわかるよ」
シキの目が輝く。
「では」と身を乗りだす。
「古代レルム語を教えてください」
「これらは何を書き写したのかな」
紙の束を指してイヴァンが問う。
「いにしえの月の民の記録です」
「月の民……か」
「知っているのですか」
「滅びた民と云われているね」
「月の民の史書を図書寮で見つけました。『月世史伝』といいます」
「なんと! 幻の、幻の書はあったのか」
イヴァンが卓に両手をついて立ちあがる。椅子が激しい音を立てて床に転がった。
「幻の書?」
終始おだやかに落ち着いていたイヴァンのとつぜんの昂奮にシキは驚き、目をしばたかせる。
「そう云われている」
「ラザール様はそんなことは……。いえ、そもそも『月世史伝』のことを知らないごようすでした」
「ラザール殿とは、星司長の?」
「はい。私は七歳でラザール様に拾っていただきました。それからずっとお世話になっています」
「そうか、シキはラザール殿の養い子か。ラザール殿の学識は、王国随一と誉も高い。そのラザール殿でもご存知なかったのか」
ふむ、とイヴァンは腕を組む。シキはちらっと衛兵のほうを見やる。話の内容は聞こえているのだろうか。直立不動のまま戸口脇に立っている。
「おそらくだが」と、イヴァンはシキに視線をもどす。
「『月世史伝』という書がいにしえの世に存在したことを知り及んでいるのは、四村の領主だけ……かもしれぬ」
シキは無言でイヴァンを見つめ返す。その瞳はなぜ、と問うていた。
――ああ、この童は聡い。
衛兵が控えていることをシキは心得ている。
「私は塔から出ることができぬ。写しがあれば、でき得る限り解読の手助けをしよう」
戸口脇に控える衛兵を振り返る。
「それくらいは、かまわないだろうか」
「上官のユラ大尉に確認をとりますが、問題ないかと思われます」
「ということだ。いつでも遠慮なくおいで」
「月の民」(5)
以来、シキは午前中に図書寮におもむき、午後からは巽の塔を訪ねるようになった。多忙を極めるラザール様を煩わせることなく『月世史伝』を解読できることが、シキはうれしかった。
イヴァンもシキとの時間を心待ちにした。幻の書の『月世史伝』が存在したことも僥倖であったが、それを読める幸運に身がふるえた。それだけではない。シキは男児であるはずなのだが、ふとした瞬間にルチルを思い出すのだ。ルチルに古代レルム語を教えているような錯覚にとらわれ、目をこすることもしばしばだった。退屈だった捕らわれの日々が明るくなった心地がしていた。
イヴァンはパンをうすく切り、サケの燻製と乳蘇をはさんだサンドイッチをこしらえる。衛兵のひとりが「自分が作ります」といったが、「いや、これくらいは私にもできるよ」と笑って断る。さて、きょうはカリヨン茶を用意してシキを待とう。
イヴァンとシキは額をつき合わせるようにして、『月世史伝』の解読にいそしんだ。紙の劣化が激しく、いくつも虫穴があり、頁がちぎれている箇所もあったが、それでも秘されていた歴史がつまびらかになる昂奮は抑えがたいものがあった。
「森の主とは?」
シキが首をかしげる。
「ここに書いてあるね。《森そのものである森の主》と」
「森そのもの? 精霊のような存在でしょうか?」
「さあ、どうだろう。白の森の王が、白銀の大鹿というのは知っているね。森は、白の森の王の意思に呼応すると云われている。だが、私は遥拝殿で祈祷を捧げても、王の御姿を見たことはないから、大鹿が実在するのか、精霊のような存在なのかわからない」
「史伝に書かれている森とは、白の森のことでしょうか」
「いにしえの森と白の森の関係がわからないから、なんとも言えない。あせらずに読み進めてみよう」
「この図は月の塔の設計図でしょうか」
シキは最初に見つけた絵図をイヴァンに見せる。
「そうとも考えられる」
「月夜見寮に似ていませんか」
「側塔はないが月夜見寮の中塔と似ているね」
「これ」と、シキは模写した別の図を広げる。
「地図ではないでしょうか」
図の上部には三角の山のような形が連なっている。下部には魚が描かれ、その上に海岸線のような曲線が引かれていた。山脈と海にはさまれた陸地には、大きくボルヘと記されている。ボルヘとは古代レルム語で「森」を意味する。
「そのようだね」
「おおまかな略図のようですが、これが月の塔だとすると」
山脈の真下の右よりに三日月が描かれている。シキはそれを指さした。
「月夜見寮のある場所もこのあたりでは?」
ふむ、とイヴァンが眼鏡をずらして顔を近づける。
「月夜見寮は、月の塔をもとにしているのかもしれないね」
なかなか興味深い、とイヴァンもうなる。
「私たちレルム人は、月の民の末裔なのでしょうか」
「そうではないみたいだ、ほら、ここ」
「レルム人が月の民を滅ぼしたのですか」
「いや、話はそう単純ではなかったようだ。流浪の民であったレルム族は、定住する土地を探していた。そうして月の民が暮らす森にたどりついた。まず彼らは東の端の森の木をほんの少し伐採し小麦を植え、牛馬を飼育した。土地を所有する概念をもたなかった月の民は、旅人に宿を貸すように気前よく森の伐採を許した。レルム人の営みをみて、それまで狩猟と採集で暮らしてきた月の民は、農耕と牧畜が安定した食料をもたらすことを知る。その日暮らしではない、暮らし。さぞかし魅力的にみえただろうね。レルム人はもとより月の民も森を伐採しはじめ、森は急速に失われた。森を守ろうとする者と、農地を広げようとする者のあいだで諍いが起こった。それがやがて戦となる」
イヴァンはカリヨン茶をひと口すすり、シキに確かめる。
「この先は、頁がちぎれていたのだったね」
どのように頁が破損していたかまで丁寧に再現しているシキの生真面目さに、イヴァンは驚きを隠さない。それはまさに『月世史伝』の複製といってよいできだった。
「続きはここからだ」
読みはじめようとしたイヴァンは、ぐっと唇を引き結んで頁を凝視する。紙を押さえた手が小刻みに震えていた。どうしたのかと、続きに目を走らせシキも驚愕する。
顔をあげると、イヴァンと目が合った。シキは戸口に立つ衛兵をそっとうかがう。
衛兵は直立の姿勢を保ってはいたが、大きなあくびをもらしていた。ここ最近の衛兵どもの関心は、ダレン伯が指揮する天卵の捜索艦隊にあった。警備の交代のときによく、「ああ、あ、おれも部隊に加わりたかったよ」と嘆きあっていた。咎人でもないイヴァンの見張りに覇気を求めるほうが難しい。彼らの関心がイヴァンとシキにないことは、ふたりにとって幸いだった。
「日も陰ってきましたので、今日、解読いただいた箇所を筆記いたします」
シキがことさら大きな声でいう。
「私も手伝うよ」
ふたりは卓の上で目配せすると、今日の解読分をまとめているふうをよそおいながら、無言で先を読み進めた。シキはわからない箇所を筆談でイヴァンに尋ねた。小窓から忍び入る西日が床に朱色の裾をのばしていた。
『月世史伝』は、ここで終わっていた。
「月の民」(6)
『月世史伝』を読み終えたふたりは、どちらからともなく吐息をもらす。瞳は昂奮で爛爛としていた。
<彼らが去った後に、レルム・ハン国を建国したのでしょうか?>
シキが筆談で問うと、イヴァンがうなずき、
<西の果ての森とは、白の森かもしれぬ>と書き足す。
<では、イヴァン様やエステ村の人たちは月の民の末裔ですか?>
わからぬ、とイヴァンは首をふる。
<四村の民は、月の民の末裔かもしれぬし、あるいは、白の森と月の民を見張る番人であったのかもしれぬ>
番人……そう考えると、エステ村をはじめとする四村が白の森の四方を囲むようにあることもうなずける気がする。それよりも月夜見寮のことだ。シキはイヴァンに問う。
<月夜見寮と月の民の関係は?>
わからないと、イヴァンがまた首をふる。
月夜見寮が月の塔を基にしていることは『月世史伝』から推測できたが、それ以上の記録はない。
――月夜見士たちが月の民の秘された末裔であり、代々彼らだけにその秘密が口伝されてきたとすれば、とシキは考える。
レルム人は星を信仰していたから、星夜見寮が優遇されるのだと恨みに思っているのかもしれない。六百年にわたる積年の恨みと妬み。昔からいがみ合ってきたのだろうか。
仮に月夜見士が月の民の末裔であったとして……シキは考えを巡らせる。 なぜ彼らは天卵の子とともに西の果ての森に行かず、レルム・ハンの王城にとどまったのだろう。レルム・ハン建国の祖、初代ラムル王は月の民が月夜見寮に留まることを許しただろうか。シキは卓に肘をつき思索の海をさまよう。沈思する顔を茜色に西日が染める。
ランプに火を灯そうと顔をあげたイヴァンは、シキの端正な横顔に息をのむ。ルチルがそこに居る錯覚に目をこする。星童のシキは男児であるはずだ。だが、はじめて会った日からかすかな違和感がある。ふとした瞬間に、娘ルチルの面影が重なるのだ。ウエーブのかかった栗色の髪に鳶色の瞳のルチルとは、まっすぐな黒髪に青い瞳のシキは似ていないはずなのに。
「やあ、すっかり日が陰ってきたね。今日はここまでにしよう」
瞳の奥に昂奮を宿し、シキが顔をあげる。陰翳に浮かびあがる聖女の絵を思い起こした。闇にまぎれぬ清澄な美しさ。その瞬間、ふいに尋ねてみたい欲望をイヴァンは抑えられなくなった。他人が秘匿していることを暴くなど趣味の良いことではない。だが、わが胸の裡に留めておくならば、そして力になれることがあるのであれば。娘を庇護するような気持ちを抑えられなかった。
手もとの紙に<シキは女の子なのか?>とペンを走らせる。
ぴくっとシキの肩がすくんだ。羽ペンの先に視点を合わせたまま塑像のように固まる。
イヴァンは答えを知った。
と同時に後悔した。<誰にも言わないから、安心しなさい>と慌てて記し、紙を暖炉に放りこんだ。紙片はたちまち、ちりちりと身をくねらせて炎にのまれた。
ようやくシキは顔をあげたが、その目は怯えていた。
「日が落ちてしまう前に気をつけて帰りなさい。明日も、また、おいで」
こくりと、うなずく。だが、もう二度と来ないのではあるまいかという予感がイヴァンの胸を悔悟とともに覆った。
巽の塔をよろよろと出ると、シキはやみくもに駆けた。イヴァン様に挨拶をしたのか覚えていない。赫き落陽を右頬に受けながら駆けた。行く手に斜めに影が伸びていく。とうとう恐れていたことが起きた。イヴァン様が私の秘密を漏らされることはないだろう。けれども、どんなに武術の鍛錬をしようとも、男のような筋骨にはならない。同い歳の星童ヨサムの声が、ふた月前にとつぜん低くなって驚いた。私の声は細く高いままだ。先日、めざめるとシーツが真っ赤に染まっていた。シキは悲鳴をあげた。駆け付けたラザールに「怖い夢を見ただけです」といい、布団をかぶった。怖い夢。そう、夢ならどんなによかっただろう。とうとう月の障りを迎えたのだ。胸はどんどんふくらんでいく。シキは自分の体が呪わしかった。
暁の門を出たところで嘔吐いた。胃袋が逆流する。吐いても吐いても、不安を吐き出すことはできなかった。
リンピアの丘から臨む東南の海上を赫い月が波間をゆらゆらとのぼる。西南の海に沈む茜の落陽の裾とまじわり、近づく闇に朱の海が浮かびあがっていた。
屋敷に帰ると、シキはベッドの下から薬研を取り出した。
ラザール様の書斎には鍵のついた本棚が一棹ある。
その鍵が開いていたことがあった。秘密の扉が開いたような昂奮を覚え、棚を物色し『本草外秘典』という薬学書を見つけた。シキが表紙を開けようとしとたん、背後からラザールの手がのびた。
「シキ、その書はいけない。禁断の書だ。それに記されている薬は人に処方することも、己で試すことも厳禁だ。薬はそもそも毒であるこを忘れるんじゃないよ」
ラザールが厳しい目をして立っていた。『本草外秘典』を棚に戻し鍵を掛けた。
鍵は書斎の袖机の抽斗にあることをシキは知っている。月の障りがはじまった日の午後、ラザールが出かけてからシキは書棚の鍵を開けた。はじめてラザール様と会った日、盗みを咎められたことを思い出した。罰は後でいくらでも受けよう、とシキは心に誓った。『本草外秘典』の頁を繰り、目的の薬の調合を写す。薬草のいくつかは山で採集し、耳猿の肝臓などは薬種店で手に入れていた。
薬研車を挽いて薬草をつぶす音が、ごりごりと月明かりに響く。
今宵の月は禍々しいほど赫い。シキは唇をぎゅっと結び目を引き攣らせる。自分の心臓をすりつぶしている心地がした。
できあがった薬を三包に分け、薬包紙でくるむ。一包を口中に含み水で流し込んだ。
たちまち喉が灼けるように熱くなり、シキは意識を失った。
第3幕「迷宮」 第13章「藍宮」
<完>
第15章「流転」に続く。
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