【ミステリー小説】腐心(9)
柳一郎の失踪は、29日か30日か。地取りで明らかにするしかねえか。とりあえず佳代子の供述を取ろう。
「失踪に気づいたのは、7 月30日で違いありませんね」
「ええ」
「時刻は?」
「晩ご飯ができたと呼びに行った7時です。さっき29日としてお話した内容は、30日のことをすり替えただけ」
「では、午後4時から『ウエステ』に買い物に出かけ、5時半に帰宅。柳一郎さんの部屋からはテレビの音がしていた。その後、あなたは夕飯のこしらえをし、午後7時に呼びに行って柳一郎さんがいないことに気づいた。間違いありませんか」
「はい」と神妙にうなずく。
「で、午後7時32分に出張中の夫、和也さんにメールをした」
「そうです」
「送信履歴を見せてもらえますか」
佳代子は斜め掛けしているホルダーからスマホを取り出す。ストーンというのだったか。やたらキラキラした石のようなものがゴテゴテと貼り付けられている女子高生のスマホのようだ。佳代子は髪型も服装も地味で、パートで歯科衛生士をしているため爪も短く切られている。飾りけのない手で操作されるデコラティブなスマホには違和感があった。
これです、とテーブルに置いたメール画面には「お父さんがまた行方不明」と素っ気ない文面で、送信日時は7月30日19時32分を表示していた。
「返信は?」
「主人からは『よろしく』だけですよ、いつも」と返信画面を開く。
「和也さんは翌日、金沢から直接ご自宅に戻られた?」
「どうでしょう。帰ってきたのは、ふだんと同じ夜の8時過ぎでしたけど」
香山は背後の樋口を振り返る。樋口がうなずく。帰宅時間の供述に齟齬はないようだ。
「それから一緒に探された?」
「主人はご飯を食べて、風呂に入って、寝ましたよ。疲れたといって」
佳代子は軽く鼻を鳴らし、冷ややかな目を向ける。
「探さなかった? 父親が行方不明なのに?」
「いつものことだと思ったんでしょ。警察に届けたことは伝えましたから。私か警察が見つけ出すもんだと思ってるんですよ。やっかいごとはすべて私に丸投げ」
これみよがしなため息を吐く。演技はかなり下手だが、かえってそれが夫への失望を浮きあがらせてみえた。
「主人はね、今でも義父が怖いんですよ」
「怖い?」
「義父は中学校の数学の教師で教育委員会の課長も務め、校長も歴任した教育者です。校内暴力の激しかった頃に教職にあって、生徒指導を担当し辣腕を振るったのが自慢でした。剣道部の顧問もしていて息子たちにも厳しかった。兄はできが良かったけど、主人は勉強もスポーツもぱっとしない。殴られるのも日常茶飯事だったようです。今じゃ虐待で即通報でしょうね。あの世代の男はそれが躾だと信じてるし、亭主関白で義母にも容赦なかった」
頬骨が出っ張り、顎がしゃくれた遺体の容貌を香山は脳裡に呼び戻す。眸は白濁していたが、見開かれたままだった。生前は眼光鋭く精悍な面立ちだったのだろう。
「義父が暴れて大声を出すと、夫は怯えて棒立ち」
トラウマっていうんですか。いい歳になっても、父親への恐怖が抜けなかったみたいね。夫を憐れむというよりも呆れている口調に聞こえた。
「それでも柳一郎さんを引き取られたんですよね」
「引き取ったんじゃなくて、押しかけられたの」
語気を荒くする。その件については、相談室での夫婦のやりとりからも、かなりの不満を溜め込んでいるようだ。
「押しかけられた?」
「さっきも言いましたけど。義母の四十九日が済んだら、勝手に実家を売り払い、明日そっちに引っ越すから、よろしく頼むって電話で一方的に告げられて。こっちの意向とか都合とかおかまいなし。驚いたなんてもんじゃありませんよ」
驚きすぎて呆然として怒ることも忘れたくらいだったんですから。怒りって落ち着いてから湧きあがるものなんですね、とまくしたてる。
「そのときばかりは、さすがに夫も抵抗してました。なんで兄貴のところじゃなくて、うちなんだって」
「理由はあったんですか?」
「近いからの一点張り。けど、おかしいでしょ。家を売ってしまってるんですよ。帰る家があるわけでもないのに、近いも何もないじゃないですか。東京の兄夫婦のところでも条件は変わらないし、むしろ、うちはまだ息子が高校生で家にいたんです。ちょうど受験の大切な時期だったというのに」
「孫が心配だったからでは?」
相槌がわりに口をすべらせて、香山はしまったと思った。佳代子が目を吊り上げている。
「孫の受験を心配するんでしたら、そっとしておくのが筋じゃありませんか。大学受験ですよ。元中学教師なんて役に立つわけない。黴の生えた古い受験知識なんて」
何を言っても火に油か、と舌打ちする。同居にも、介護にも、相当根深い恨みをもっていたことは確かなようだ。柳一郎との同居の経緯については、長男にも確認する必要がある。葬儀のときにでも話を聞くか。
「世話には苦労されていたんですね」と同情をにおわせてから、
「見つからなければいい、と思われませんでした?」となにげなく問う。
うっかり口をすべらせることを期待し、さりげなく尋ねたつもりだった。
だが……。
「そういうのを未必の故意っていうんですってね。刑事さん、私を疑ってるの? 家族が行方不明になった場合、毎日毎日、一日も欠かさずいつまで探せば未必の故意だなんて失礼な疑いをかけられなくなるのかしら」
「届けを提出されて、まだ三日でしょ」
「ここんとこ連日、車で朝、昼、晩と近所をひと回りしてます。でも、日が経つにつれて、どこまで徘徊しているかわからないじゃないですか。どこをどう探せばいいのか教えてほしいくらいよ」
「柳一郎さん、スマホは?」
「自室のテレビの横に置きっぱなし、いつもそう。一緒に出掛けるときは、義父の肩掛けバッグに入れてもたせます。でも、一人で勝手にふらりと出るときに、スマホなんて。あの世代はスマホ自体に馴れてませんから、持って出る意識は皆無ですね。鞄すら持つのを嫌がるくらいです」
佳代子はよくしゃべる。だが、語るに落ちない。やましいところがなかったとしても、介護に不平を溜めているのなら、「見つからなくてもいいと思った」くらい口をすべらせてもいいはずなのに。この女を相手に、未必の故意を立証するには、動かぬ証拠を突きつけるしかないのかもしれない。
「発見現場ですが。昔住まわれてた家に、似ていたりしませんか?」
質問の矛先を変えてみる。
「そうね、そう言われれば。テラスハウスじゃなくて一戸建てでしたけど。発見現場のお隣と合わせると、ちょうど同じくらいの大きさかしら。家の向かって右端に玄関があるというのも、門扉から玄関までがまっすぐのアプローチなのも、隣家との間のフェンスが白というのも。似ていると言えば似ているかも」
「鍵はどうしたんでしょう。空家ですが、鍵がかかってたはずなんですが」
「そんなの、私がお聞きしたいくらいだわ」
義父に鍵開けの特殊能力なんてありませんよ、と付け足す。
柳一郎がなぜ空家に入れたのか。それも謎の一つだ。だが、もうこれ以上質問しても、収穫はなさそうだ。
一つだけ逡巡していることがある。ヒ素だ。結果は出ていないが、探りを入れるべきか。むやみに突いて証拠隠滅を図られても困る。だが、ガサ状が無ければ家宅捜査はできない。ガサ状を取るには、窒息死の嘔吐がヒ素中毒によると立証できないと難しい。令状が出る前に処分される可能性のほうが高い。煽ってゴミとして処分するのを誘発し回収するか? いや、ダメだ。下水に流されたら、どうしようもない。入手先の特定が先か。そもそもヒ素中毒かどうかの分析もまだだ。
ペットボトルの茶を啜る佳代子の顔を、香山は平静を装いながらさりげなく覗う。
下手は打てない、と思った。今日はここまでか。
「あらかた事情をお聞きすることができました。長時間のご協力、ありがとうございます。また、何かありましたらご協力をお願いすると思いますが、その節はどうぞよろしく」
「ここにサインを」と小田嶋がボールペンを渡そうとすると、佳代子はバッグから自分のペンを取り出してサインした。
「もう3時? 時間ってあっというまね」
飲みかけのペットボトルをトートバッグにしまい立ち上がる。
「それ、捨てときますよ」
「まだ少し残ってるの。車で飲むわ。きっと中は灼熱地獄ね」
くそっ。指紋もとれなかった。
(to be continued)
第10話に続く。
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