【ミステリー小説】腐心(10)
「課長、今朝の桜台町のホトケの件なんすけど」
刑事課長の島田警部がノートパソコンから片目だけ上げる。遠近両用メガネはかろうじて鷲鼻に引っかかっていた。香山の顎先に向かって、続けろ、と促し画面に視線を戻す。薄くなった頭頂部に話しかけるのも馴れた。
「事件性が出てきたんで、樋口だけでなく田畑と小田嶋も借りて班を組みたいんですが」
島田は左肘をデスクにつき、だぶついた顎を支え胡乱な目を向ける。
「熱中症による死亡事故と違うのか?」
視線はパソコンの画面に向けられたままだ。
「事故の線も消えてませんが、遺体が腐ってないんすよ」
「腐ってない? 熱中症警戒アラートまで出てるのにか」
ようやく島田が語尾と顔をあげ、香山を凝視する。
「不審点は他にもあります」
島田が目だけで先を促す。
「鍵の掛かってる空家に、認知症老人がどうやって侵入したのか」
香山は試すように問いかける。
ふん、と島田は鼻を鳴らす。
「解けない謎に引っかかったか。まあ、好きなだけ調べてみろ。ただし四人も回せん。樋口と小田嶋の三人であたれ。小田嶋、いけるか?」
首だけ伸ばして、小田嶋裕子に問う。
「大丈夫です」
俺と課長のやりとりに耳をそばだてていたのだろう、小田嶋は即答した。メンバーから外された田畑が隣席で憮然としている。香山もできれば女性で年上の小田嶋より、使いやすい田畑のほうが良かったがしかたない。
「ま、ちゃっちゃと片付けてくれ」
「ありがとうございます」
香山が頭を下げると、島田の視線はもうパソコンの画面に戻っていて、左手で邪険に追い払われた。
「ただいま戻りました」
コンビニの袋をぶら下げた樋口が、入り口で音量調節に失敗した声をあげる。いつものことなので香山以外は誰も振り返りもしない。
「食いながら打ち合わせするぞ。調書をもって三号相談室に来い」
香山は小田嶋を目で促し、樋口からコンビニの袋を奪い刑事課を出た。
「扉は閉めてくれ」
コンビニの冷麺をすすりながら香山は、遅れて来た樋口に指図する。
樋口のかつ丼とおにぎり二個は、すぐに食べれるようにと香山の向かいに小田嶋が並べていた。こういう気の回り方は、さすがに女性だ。野郎ではコンビニの袋のまま放置する。樋口が小田嶋に、あざっすと軽く礼をいって座り、香山に調書を手渡す。樋口は体育会系気質が抜けきらないくせに、小田嶋には軽いノリで接する。十歳近く年上だが、刑事課での経験は樋口のほうが一年長い。だが、そこに必要以上のこだわりはないらしい。年齢が明らかに離れているからなのか、素直に甘えている。小田嶋のほうも、歳の離れた弟のように世話を焼くところがある。
「小田嶋さん、すまんが調書をかいつまんで読み上げてくれませんか」
一方、香山は小田嶋を相手にすると時々文体がおかしくなる。
階級も経験でも部下だが、三歳年上で女性の小田嶋への接し方に、香山はいまだにとまどいがあり不自然な敬語が混じる。
警察は階級社会だ。キャリア組は大学出たての若造でも警部補からスタートする。逆に香山のようなノンキャリは警部補で退官する者も多い。年齢よりも階級で敬意の矛先は決まるし、香山も男には階級が下だと敬語を使うことはない。女性を前にすると途端にそれが崩れ、文体がとんちんかんになるのだ。新人女性警官を「ちゃん呼び」するのと通底するものだ。小田嶋が刑事課に異動してきて一年。男社会に伍して戦う彼女の覚悟を踏みにじるものだとわかっている。笑って赦してくれているうちに、なんとかせねば。
「では木本和也の人定から」
小田嶋は香山の隣に座りてきぱきと読みあげる。香山は聞きながら、遅い昼食を機械的に胃に流し込んでいた。
「木本和也、57歳。東野市若草町3丁目12-1に妻佳代子、父柳一郎との三人暮らし。柳一郎とは八年前から同居。住居は4LDK一戸建て。一人息子の幹也は私立W大学理学部大学院修士課程に在学中で、都内で一人暮らし。医療機器と医薬品の卸販売会社『宮下メディカル販売』D支店の営業部課長補佐。主に開業医や介護施設のルート営業を担当。担当地区は東野市の西隣の横手市。以上です」
「定年前の57歳でまだ外回りの営業か」
香山は冷麺の汁を飲み干す。濃い味付けが味蕾を満足させる。
「課長補佐って役職も微妙ですね」小田嶋が付け加える。
「出世コースから外れてたのか」
「かもしれません」
「ガキの頃も、成績もスポーツもいまいちで柳一郎から叱責されてたと、妻の佳代子が言ってたな」
「不器用な小心者……」小田嶋がつぶやく。
「小田嶋さんのプロファイリングすか」
樋口がいかつい顔をぬっと突き出す。
食べ終わった丼のカップをビニール袋に突っ込み、「カヤさん、それ」と香山の冷麺の器も自分のゴミと一緒に片付ける。樋口は見かけによらず、よく気がつき目配りも細やかだ。長年付き添った嫁みたいにさりげなく香山の世話を焼く。それを指摘すると、これもラグビー部仕込みですよと照れ笑いする。
食後の一服を肺が催促していたが、小田嶋のてまえ胸ポケットに伸ばしかけた手を引っ込めた。それを目ざとく見つけたのだろう。
「いいですよ、吸ってくださって」と小田嶋が笑う。
顎で切り揃えたボブの髪を揺らし、窓を開けましょうか、と入り口の対面にある窓に向かう。いや、とその背にためらいをこぼすと、「私に遠慮は不要です。変な気をつかわないでください」きっぱりと宣告された。
「じゃ、遠慮なく」と香山はハイライトに火を点けた。
肺が深く息をつく。なんだ、結局、俺ばかり気を遣われてんじゃないか。情けねえ班長様だよ。苦笑を煙にのせて吐き出す。
「ガイ者の失踪時ですが、和也は7月29日から31日まで博多で開催されていた『医療機器メッセ』に参加しています」
小田嶋が調書に目を落とし該当箇所を読み上げる。
「一人で?」
「部下の足立衛と二人ですね」
「出張のウラは?」
「すぐに取ります」
樋口が立ち上がろうとするのを、後からでかまわないと手で制す。
「まあ、落ち着け。まず、事実関係を整理するぞ」
小田嶋がホワイトボードの前でマジックをかまえる。
「登場人物は、今のところ三人」
「関係者じゃなくて、登場人物ですか?」
「カヤさんは、そう言うんですよ」
樋口がドヤ顔で披露すると、小田嶋は、へえ、と俺を見る。
その方がイメージをふくらませやすいだろ。刑事になりたての頃に香山の指導係についた梨本警部補からの直伝だ。犯人の心理状態、被害者の状況、原因。ドラマのように思い浮かべれば、見えてくるもんもあるだろって教わった。事実と真実は違う。事実は大切だが、事実の裏側に潜むドラマを見ろってな。
「ということは、被害者も登場人物ですね」小田嶋がうなずきながらいう。
「そうだ。被害者も容疑者も、登場人物の一人としてフラットに扱う。それぞれの視点から心情を考える」
小田嶋が叩頭しながら、ボードに柳一郎、和也、佳代子の名と関係を列記する。
「この三人の動きを時系列で整理するぞ」
香山は小田嶋に代わって、ボードに現場把握していることを書きだす。
「検視では、柳一郎の死亡は29日か30日だ」
言いながら香山は、29と30を赤いマジックでぐりぐりと囲む。
「失踪後わりと早い段階で柳一郎は死んでる、ということですか」
樋口がテーブルに両肘をついて身を乗り出している。
「引っかかるのは、柳一郎の失踪と和也の出張が重なっている点」
香山がボードを叩く。「偶然だろうか?」
「夫の出張を狙って、佳代子が計画を実行に移したんじゃないすか?」
樋口が妥当な線を口にする。
「計画って何?」小田嶋が問い直す。
「行方不明を演出するか、現場に放置する?」樋口がおずおずと答える。
「積極的な計画は立ててなかったけれど、わざと探さなかった、という線は?」
小田嶋はボードがよく見えるように樋口の側に回る。くしくも生徒二人を香山が指導するような構図になった。
「未必の故意すか」
小田嶋がうなずく。
「その線なら、熱中症による事故死を確実にするために失踪が29日の夜だった、と考えることもできるんじゃねえか?」
香山が考えの口を広げる。
「わざと夫への連絡を遅らせたってことですか。未必の故意を隠すために」
そうだ、と香山が同意する。
「あの奥さん、ひと筋縄でいきそうになかったわね」
「あるいは、夫婦での共謀」
香山はまた別の可能性を投げる。
「展示会への出席をよそおってアリバイ作り?」
「となれば、実行犯は和也すか?」樋口も参戦する。
「ちょっと待って、何を実行するの? 死因は嘔吐による窒息死でしょ」
小田嶋が両手で側頭部を抱えこむ。
「それはガイ者の失踪の足取りを追えば、見えてくるかもしんねえな」
紫煙を吐き出し、ハイライトを携帯灰皿でもみ消す。
「よし、疑問点を洗いだそう」
香山はボードをひっくり返す。
「順番に片付けよう。まずは、ガイ者の足取りを追う。防カメの映像を精査する」
「30日の映像っすか」樋口が問う。
「いや、29と30だ。29日に失踪した線も捨てきれん」
「了解です。若草町の木本家付近の防カメ映像を至急取り寄せます」
「鍵の件は家主だな」
「登記簿をあたります」小田嶋が声をあげた。
「シルバー人材センターでもわかるかもしれませんよ」
樋口が口をはさむ。
「え?」
「遺体の第一発見者の庭師が、シルバー人材センターから派遣されたって言ってたんで。センターか市が空家の家主も把握してるんじゃないっすか」
「そっか、ありがとう。シルバーセンターに問い合わせるわ」
分担を割り振っていると、香山のスマホが鳴った。鑑識の浅田からだ。スピーカーをオンにする。
「ヒ素の結果か」
――いえ、それはまだ科捜研から返ってきてません。
「じゃあ、なんだ」
——下足痕で、引っかかる点があるんですよ。
「わかった、すぐ行く」
(to be continued)
第11話に続く。
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