『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(1)
その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、隣家との垣で山茶花が蕾をつけている。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。
ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止め、開け放たれた格子戸から中を訝しげにのぞきこむ人がいる。
いらっしゃいませ。ようこそ、『オールド・クロック・カフェ』へ。
あなたが、今日のお客様です。
***Christmas Tree***
からからから。
格子戸が開くと寒風がさっとすべりこむ。ケトルがぴーっと甲高い声を立てて湯が沸いたことを主張した。
「いらっしゃいませ」
戸口に向かって桂子が声をかける。なにやら戸口前がざわめき複数の足音がする。
「こんにちは。ツリーをお届けにきました」
モスグリーンのパンツスーツ姿の女性が顔をのぞかせる。建設会社で店舗コーディネーターを務める亜希だ。桂子が店を継いでまもない昨年の春に亜希は時のコーヒーを飲んだ。以来、外回りの仕事のあいまに寄ってくれる。
「格子戸を痛めないよう気をつけてね」
振り返りながら亜希が指令をだすと、ぬっと緑の枝先が斜角で侵入した。
「あ、モミの木」
桂子はカウンターから走り出る。
白っぽいつなぎの作業着に濃紺のジャンパーをはおった男が二人モミの若木の鉢をかかえて入ってきた。
モミの生木を飾りたいと亜希に相談すると、出入りの造園業者に訊いてみるわと請け負ってくれた。明日から暦が十二月に変わるのに合わせ手配してくれたのだ。
「すげえ!」
鉢を抱えた男たちが店を埋め尽くす時計に驚く。
「三十二台もあるんよ」
亜希が誇らしげに説明する。
「壮観っすね」
「この辺でいいかしら」
カウンターと中央のテーブル席のあいだを指す。
「はい、その辺で」
「テーブル、少し後ろにずらそか」
「そうですね」
「ごめん、テーブル動かすの手伝ってくれへん」
亜希は男二人にお願いする。
テーブルを動かし終えると男たちは「ほな、これで」と帰ろうとする。桂子は慌てて「コーヒーでも飲んでいってください」と声をかけたが、「次の配達があるんで。こんどゆっくり来ます」と風を連れて去っていった。桂子は亜希を振り返る。
「亜希さんもお忙しいですか」
「だいじょうぶよ。オーナメント飾ろうか」
亜希がツリーの前で腕まくりしている。
「オーナメントは籠に入れて置いとくんです。お客さんにひとつずつ飾ってもらうんが恒例なんで」
「いいわね。それも先代オーナーのアイデア?」
「祖父ではなくて祖母のアイデアと聞いてます」
「おばあ様ってメニューの時刻も考えはったんやったよね、確か」
桂子はうなずく。
「すてきなこと思いつかはる方ね」
「亜希さんもひとつ飾ってください」
亜希は柱時計のオーナメントを選んだ。中庭に通じる格子戸から差しこむ冬の陽がモミの緑を落ち着かせる。
「うん、この店にはほんものが似合う」
亜希はつぶやきながらカウンターに腰かけた。
こぽこぽとサイフォンが穏やかなリズムを奏でコーヒーのふくよかな薫りが立ちのぼる。十二月を明日にひかえ、街は駆け足になりつつあった。
「新しい名刺なの」
カウンター越しに渡された名刺には店舗コーディネーターの肩書の上に色彩検定一級カラーコーディネーターと追加されている。
「おめでとうございます。合格しはったんですね」
「やっとね」と笑む。十二番の時計のおかげ、一年半かかったけど。
亜希はスツールを斜めにひいて奥の壁を振り返る。薄紫のグラデーションが目をひく柱時計が振り子を揺らしていた。
「空は水色で、雲は白でしょ」
母による「正しい色」の呪。それを解き放ちたくてカラーコーディネーターの勉強をはじめたのだと亜希は話してくれた。
「色っておもしろいのね」
街路樹は雨に緑を濃くし、鴨川も季節や時刻によって変化するでしょ。昨日見た色はもうどこにもなくて。グレーばかりだった私のクローゼットにもパステルカラーやビタミンカラーのスーツが並ぶようになったのよ。服が明るくなると不思議と心も上を向くのね。資格は目に見える勲章でしかなくて。ほんとうに手に入れたのは自信なんだと思う。
色について語る亜希はとても饒舌だ。
「お母様は」
カラーコーディネーターの肩書に視線を落とし、桂子は言葉を探す。亜希の母はクリエイティブなものを嫌悪していると聞いていた。
「母が一番喜んで自慢してるの、恥ずかしくて」
亜希は肩をすくめる。
「私は姉と比べると頼りなくて、いくつになっても心配な子やったのね。高校も短大も就職先まで母が決めた。山田建設は母の勤める会計事務所の得意先。娘をお願いしますって、知らないうちに頼んでたんよ」
あきれちゃうでしょ、と薄く笑う。
「私は母が敷いたレールを歩いてきただけ」手にしたカップをゆらす。
「そんな娘が自分から挑戦して資格を取った」
安心したのかな、とコーヒーを啜る。
「そうだ、顔見世に興味ある? もうチケットはとった?」
「いえ。子どものころは母と観にいってたんですけど。最近はぜんぜん」
「良かったら、これ。平日の昼の部やけど」
顔見世興行のチケットを二枚カウンターに置く。
値の張るものなので桂子はためらう。
「うちの社長が松嶋屋さんの御贔屓筋で社員にくれるの」
二十日の昼の部のチケットだ。
「亜希さんは」
「出発前日やからね」
桂子は首をかしげる。
「クリスマスをスペインで過ごすんよ」
「お父様のところに?」
亜希の父はスペイン在住の画家だ。うなずきながら亜希はカウンターに肘をつき含みのある目を向ける。
「母も一緒にね」
「えっ」桂子は思わず高い声をあげる。
画家になると家を出た夫を亜希の母は否定していたはず。
「仲直りしはったんですか」
「仲直りっていうより、雪解けかな」
亜希は言葉を探しながら話す。
「去年の春に父が個展を開いたでしょ」
「見に行きました。すばらしかったです、あの空の絵」
亜希の父は昨年、四条西洞院のギャラリーで凱旋個展を開いた。京都新聞にも紹介されなかなかの盛況だった。渋る母を亜希が無理やり連れて行くと、夕方のローカル番組の取材を受けていた。カメラの前に立つ夫の姿に「マスコミは変わったものに飛びつくんや」と辛辣な言葉を吐き、ぽろぽろと涙をこぼした。
びっくりしたの、と亜希はいう。
夫が夢を追いかけ出て行って二十年だ。娘二人を育てなければならない不安、夫の身勝手に対する怒り、どこにもぶつけようのない感情に締めあげられ長く苦しかったのだろう。離婚しなかったのは娘のためだと思っていたが、根雪のような想いがあったのかもしれない。
「というようなことを、私もようやく想像できるようになった」
ふふ、と亜希が片頬をあげる。
「南座にまねきが揚がってた。よかったらお母さんと観にいって」
亜希は言い置くと、ごちそうさま、と帰っていった。
お母さんとか。桂子はため息を吐く。
(to be continued)
第2話に続く。
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『月獅』の連載や創作大賞の『アンノウン・デスティニィ』で中断していた『オールド・クロック・カフェ』を再開します。
半年ほど前に書いた作品のため季節はずれになってしまいますが。
暑さをしのぐよすがとしていただければ幸いです。
亜希の話(1杯め「ピンクの空」)は、こちらから、どうぞ。
前話(5杯め)は、こちらから、どうぞ。
メニューの時刻の謎については、こちらから、どうぞ。
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