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【ミステリー小説】腐心(8)

第1話は、こちらから。
前話は、こちらから。

<前話までのあらすじ>
住宅街の空家で高齢男性の遺体が発見された。死後五日ほど経つとみられる死体は、連日35度超えの猛暑日のなか腐っていない。腐敗しない遺体について鑑識の浅田は、ヒ素の関与をほのめかす。検視の結果、死因は吐瀉物による窒息死。死亡推定日時は7月29日ないし30日。だが、行方不明者届の受理は7月31日。事件性が増したため失踪状況を同居家族の次男夫婦から聴取することになった。香山は木本佳代子を取調室で、樋口は和也を相談室で聴取する。被害者の失踪日を妻の佳代子は29日と供述する。だが、出張中だった夫の和也は妻からメールで報せを受けたのは30日だという。

<登場人物>
香山潤一‥‥‥‥H県警東野署刑事課巡査部長
樋口武史‥‥‥‥巡査・香山の部下
浅田‥‥‥‥‥‥鑑識係員
木本柳一郎‥‥‥被害者・遺体で発見
木本和也(57)‥‥被害者家族・柳一郎の次男
木本佳代子(52)‥被害者家族・和也の妻

 被害者の失踪日時について夫婦で供述が異なるというのか。
 樋口からの報告に香山は文字どおり耳を疑う。
「おい樋口、そっちは聴取が終わったんだな」
 ――はい。
「そのメール画面を送信日時のわかる状態で写メしろ。木本和也は帰していい。おまえも、こっちに来い。二号室だ」
 ――了解です。
 香山は廊下の壁にもたれて二本目のハイライトに火を点け、二号室と表示されている取調室の扉を睨みつける。
 単純に考えると29日に失踪したという佳代子の供述が虚偽か、30日の和也宛のメールが虚偽か。いずれにしても佳代子が嘘をついている。
 なぜ?
 煙草を指に挟み、肺にたまった煙を天井に向かって吹く。書類を抱えた警務課の女性署員が眉を顰めて通り過ぎた。署内は禁煙となって久しいが、目で非難されても口に出して咎めるものはめったにいない。
 香山は煙の行方を追い、行方不明日のずれについて思考を巡らせる。
 ……待てよ、和也が自分宛に虚偽のメールを送った可能性もあるな。妻のアカウントを装うぐらいたやすいか。いや、それはねえ。和也は29日から金沢に出張していた。そもそも柳一郎の失踪を知り得ない。となると、やはり佳代子が虚偽メールを送った線が濃厚か。あるいは夫婦で共謀か? いや、これもないな。日付の異なる矛盾を警察に突かれることくらい実行前に検討するはずだ。
 まとまりのない思考の海をさまようように、紫煙がたゆたっては消える。
「カヤさん、お待たせしました」
 樋口が廊下を駆けて来る。
 おう、と香山は片手をあげハイライトをもみ消すと、二号取調室の扉を押した。
 
「すみませんねえ、お待たせして」
 背をかがめて樋口も入室すると、佳代子はちらっと視線を動かした。
「ご主人は終わったので、帰っていただきました」
 香山は佳代子に焦点を合わせパイプ椅子に腰かける。
 あらそう、と佳代子は薄い返事をしてペットボトルに口をつける。ボトルの形にすぼめた口紅の赤が、無機質な部屋では目に引っかかる。赤い唇が覆う虚偽をひっぺがしたい。
 ボトルの蓋を閉めるのを待って、香山は質問を再開した。
「柳一郎さんの行方不明に気づいたのは、29日の19時で間違いありませんか?」
 佳代子の瞳が右斜め上で止まる。香山の背後に立つ樋口を見ている。
「そうね」肯定とも相槌とも、判然としない。
「おかしいですねえ。ご主人の和也さん宛で、30日に行方不明を報せるメールを送信されてますよね」
 樋口がすかさずメールを写メしたスマホを机に置く。送信日時は7月30日19時32分、送信者は木本佳代子と表示されている。
「あら、バレちゃったのね。うっかりしてたわ」
「バレた?」香山の声が低く這う。
「ね、これは事件なの? 義父ちちは殺されたんですか?」
「それをこれから捜査するところです」
「熱中症で死亡したんじゃなくて? じゃあ、死因は何?」
「死因に心当たり……あるんじゃないですか? 奥さん」
 香山はぎりぎりで切り返す。死因は犯人しか知りえない秘密だ。
「私を疑ってるの?」
 佳代子は香山の当てつけにも動じない。
 目の前にいるのは、頬にシミの浮いた平凡なくたびれた主婦なのに。このしたたかさはなんだ。
「義父は勝手に家から抜け出して徘徊し、空家で倒れていた。これのどこに私が殺したと疑う箇所があるのか、教えていただきたいわ。私がどこかで義父を殺害して、あの空家に運んだとでもおっしゃるの?」
 香山と佳代子の視線がぶつかる。
「そう先走らんでください。我われは、奥さんに殺人容疑をかけて取調べているんじゃありません。ご家族の一人として、柳一郎さんの失踪時の様子をお聞きしているんです。失踪に気づいたのは、29日ですか、30日ですか?」
 ふっと佳代子が微笑んだ。
「30日よ」
「なぜ届けには29日と」
「先ほど申し上げたでしょう。義父の徘徊で何度も行方不明者届を出して警察に嫌がられたって。うちはブラックリストに入ってるんじゃないかしら」
 佳代子が挑むような目を向け、赤い唇を一瞬ためるように閉じる。
「あれからは、家族の責任を果たすよう心がけて、手を尽くして探しても見つからなかったときに捜索願いを出すようにしてきました……」と目を伏せたが、すぐに顔をあげ「というのは、建前」とくすりと片笑む。
「建前?」
「虚偽の届けをしたら公文書偽造? になるのかしら」
「公文書偽造は、免許証などを発行権限のない公務員以外のものが偽造する場合が該当します。日付については、書き間違いの訂正印で処理しますよ」
 そう、よかったと赤い口もとをゆるめる。
「丸一日探したふりをしたということですか」
「私もね、鬼じゃありませんから。この暑さのなか年寄りがふらふら徘徊すれば熱中症で倒れないか心配します。だから、一刻も早く探していただきたくて、ちょっと小細工をしたんです。もとはといえば、警察が嫌がるからじゃありませんか」
 香山は、ぐっと詰まった。
 佳代子の供述は理にかなっている。虚偽の日付を記載するのは感心しないが、失踪から一日半ないし二日近く経っていると申告すれば緊急性も増す。いち早く管内の交番に連絡してパトカーを出させるだろう。戦略としては有効と言わざるを得ない。ましてや結果として、死体で発見されたのだ。日付の虚偽記載について杓子定規に追及すれば、かえって警察対応の落ち度を批判されることにつながりかねない。
 では、29日に失踪していた場合はどうか。
 連日の炎天下のなか二晩も帰らなければ、認知症で判断力の鈍った高齢者が死亡するリスクは高まる。直接手をくださなくとも、確実ではないが行方不明のまま死亡させることができる。死んでもいいし、死ななくてもいい。
 未必の故意――。
 その実現を確実にするために、夫への連絡を一日遅らせ、わざと警察に日付のずれを指摘させ、実際は30日に失踪したと信じさせて、未必の故意を隠す。過去の警察の対応を逆手にとって利用した――。
 考えすぎだろうか?
 窓の外では真夏の太陽がぎらついているのに、香山の背を冷たいものが滑り落ちた。

(to be continued)
 

第9話に続く。


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