大河ファンタジー小説『月獅』52 第3幕:第14章「月の民」(1)
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第3幕「迷宮」
第14章「月の民」(1)
レルム暦六三五年四月、王国に激震が走った。
「天は朱の海に漂う」との星夜見がオニキス副星司長によってなされた。流星が流れ、天卵が生まれてからちょうど二年が過ぎた春で、カイルは十七歳、シキとキリトは十二歳になっていた。
二年前、白の森の南端にあるカーボ岬から、天卵は海に没したとレイブン隊が報告していた。それを覆す星夜見に王宮は騒然となる。事の真偽を確かめるべく、ダレン伯が辺境警備軍を率いて海路探索に向かうことになった。
王宮は浮足立っていた。
回廊で、広場の片隅で、各々の執務室で、三々五々に集まって議論したり、ひそひそと密談したり、まことしやかで不確かな憶測が飛び交っていた。そのような折にシキは、星夜見士のダンとロイが月夜見寮の不穏な動きについて話しているのを耳にした。
天卵のことは、『黎明の書』に「孵りしものは、混沌なり、統べる者なり」と書かれていることしか知らない。天卵から生まれた者は、王国に混乱をもたらし、国を乗っ取るのではないかと恐れられているらしい。カイルやキリトと知り合う以前のシキは、誰が王様になろうと、どうでもよかった。ラザール様のお役に立つことにしかシキの関心はなかった。だが。偶然にもカイルに出遭い、キリトに星の話をするようになった。自分のようなものが王子様方と席を同じくする。村にいたころには考えられなかったことだ。父さんと母さんが導いてくれているのだろうか。
カイル様は王位につくつもりはないとおっしゃる。
「王宮という鳥籠ではなく、シキのように、父母といっしょに食卓を囲むような民の家に生まれたかったよ」と。
シキには、王宮の窮屈さはよくわからない。返すことばが浮かばず黙っていると、
「畑を耕したことも、シキのように空腹に苦しんだことも、盗賊に襲われる恐怖も、生きるために卵を盗んだこともない。書物のなか、空想のなかでしか世を知らぬ。吾は空虚なのだよ。だからこそ、この目と足で確かめてみたいと願うのだ」
後宮にいたころはほとんど翡翠宮から出たことがなく、立宮して少しは自由になったが、それでも藍宮と図書寮を往復するぐらいだと苦笑される。
「星夜見の塔にも登ってみたいものだ」
「ラザール様にお願いしましょう」
シキが身を乗り出すようにして提案すると、静かに首を振られる。
「申し出はうれしいが、ナユタに止められるだろうね」
なぜに、とシキは振り返ってナユタをうかがう。
最初の出会いで刃を突き付けられた恐怖もあり、シキはナユタが苦手だ。
「バランスの問題です」
ナユタは細い目でシキを見据えていう。
「バランス?」
「星夜見寮と月夜見寮は、昔からいざこざが絶えません」
星夜見士のダンとロイも話していた。月夜見が何か企んでいるのじゃないかと。星夜見の皆は、ことあるごとに月夜見の動きを警戒している。
「カイル様が、今、星夜見の塔を不用意に訪ねられると、月夜見寮の不興をまねくばかりか、星夜見がカイル様にくみしたとあらぬ憶測を呼ぶことになるでしょう。わかりますか」
シキには政治はわからない。が、ナユタが何を案じているのかはぼんやりとわかった。
それにしても、なぜ、星夜見と月夜見はいがみあうのか。
シキは月夜見について、ほとんど何も知らない。月の運行を観察しているというくらいだ。なぜ季夜見府には、星夜見寮と月夜見寮のふたつの役所があり、それぞれに夜見の塔があるのだろう。どうして月夜見寮は星夜見寮を敵視しているのだろうか。
「わからないことを、わからないからと目を閉じてはいけないよ」
ラザール様はいつもおっしゃる。
まず月夜見のことを知らねばならないと、シキは図書寮に足繁く通い、『月世史伝』という古い史書を見つけた。
それは書架の奥の奥で埃を積み、まるで隠されるようにあった。鞣し革を被せた背表紙はかろうじて形を維持していたが、息をころして扱わねば、たちまち歳月の彼方へと崩れおちる魔法でもかけられていそうだった。
『月世史伝』はかなり古い書物で、古代レルム文字で記されていた。
シキには古代レルム文字は読めない。諦めて閉じようとしたとき、風が頁をめくった。木の葉が舞い上がるようにぱらぱらと数頁がめくれ、ぴたりと止まる。挿絵なのか図なのか判然としないものが目にとまった。古代の壁画ほども簡略化されていないが、象徴的な図案のようなものが描かれていた。
中央に縦長の長方形があり、上部が半円になっている。下部には幾重にも輪が描かれ、その軌道上に小さな円がいくつか点在していた。円は白と黒で塗り分けられていたが、左半分が黒で右半分が白、猫の爪か三日月のようなものもある。魔法陣かと思ったが、しばらく眺めていてシキは、月の満ち欠けを表しているのではないかと考えた。古い月夜見の宿図だろうか。頁を繰ると、他にも地図のようなものがある。文字が読めないことには、やはり、挿絵だけで推測するにも限界がある。
「まだ居たのですか。もう閉めますよ」
当番のものがランプをかざして近づいて来た。
図書寮は貴重な書物が蔵されているため火を嫌う。ランプや火燭は置かれておらず、日が陰ると閉館される。シキは時の経つのを忘れていた。
そうだ、星夜見の塔に銀水を届けなければ。今宵もラザール様は塔にお籠りだろう。
「天は朱の海に漂う」との星夜見がなされて以来、屋敷にお帰りになられない日が続いている。できることならばラザール様に『月世史伝』を解読していただきたいが、これ以上ご負担をかけるわけにはいかない。銀水を届けるついでに『月世史伝』のことをお伝えし、古代レルム文字を読むにはどうすればよいかをお尋ねしよう。
シキはそっと『月世史伝』を閉じ、慎重に書架に戻すと、塔をめざして小走りに駆けた。赫い月が行く手を照らしていた。
(to be continued)
第53話に続く。