現代詩を、聴く。
小池昌代/林浩平/吉田文憲(編著)『やさしい現代詩(自作朗読CD付き)』を聴く。
そう、聴いたのだ。まえがきも、詩そのものも一切読まず、詩人みずからの朗読をまず聴く。一つの詩を聴いてから、詩人の名前を確かめる。収録されているのは17人、17の詩。名前を知っていた詩人は、およそ半数。知っている詩は一つもなかった。
なぜ、そのように「聴いた」のか。
詩人みずからの語り口を聴きたかったのだ。
詩は、朗読者の解釈や感じ方、思い入れなど、詩とのかかわり方によって、その朗読のあり方は異なる。同じバッハのゴルトベルク変奏曲でも、グレン・グールドが弾くのと、ピーター・ゼルキンが弾くのでは、受ける印象がまったく違うのと同じ。詩人みずからの朗読ならば、その詩への心持ちがよく表れるのではないか。
17篇の詩を「聴いて」みて、もっとも胸に突き刺さったのは、平田俊子さんの『宝物』。
平田俊子さんは、もともと好きな詩人のうちの一人。ただ、平田俊子さんを最初に読んだのは『二人乗り』という小説で、その後も『ピアノ・サンド』など小説が中心だった。現代詩文庫の「平田俊子詩集」を読んだのも数か月前。しかも、それにはこの『宝物』は収録されていない。
それでも、この詩を「聴いて」、ああ、いいなあと感じた。「聴いた」のに、一目惚れのように胸が締めつけられた。これは平田俊子さんの詩かなと勘がはたらいたのもほんとうのことである。
つぎに印象的だったのは、岬多可子さんの『硯の底』。これは行分け詩ではなく、段落をもった散文詩ではないかと感じたのは、抑えた語り口からか。短編小説とは異なり、明確な筋書きがあるわけでもなく、論理を追うこともできない。それでも、まっさらな半紙のうえに、筆の先から滴った墨のように、じわじわと胸に滲んだ。
さらに響いたのは、小池昌代さんの『夕日』。夕焼けを前に、お互いに惹かれ合っている片岡くんとの会話を描いている。情景がありありと目に浮かぶ。詩そのものから受け取る印象よりも、語り手と片岡くんそれぞれに対する感情移入のほうが強かったかもしれない。
舞台上で詩人が自作の詩を朗読するパフォーマンスとしてのポエトリー・リーディングのように、音声だからこそ楽しめたのは、佐々木幹郎『行列』とねじめ正一『かあさんになったあーちゃん』。『行列』は、各行頭の「行」という音のたたみかけに一瞬ひるむが、その反復や強調が不気味さとおかしみを漂わせているのだと感じる。『かあさんになったあーちゃん』はリズムやオノマトペがいい。
また、音声で受ける印象と、書かれた文字として読む印象が大きく異なったのが藤井貞和『あけがたには』。詩の終わりちかくの3行で、詩全体を「聴く」のと読むことの違いを巧みにまとめあげている。
本書のまえがきによれば、詩は未知のものへの呼びかけだという。
呼びかけられてしまった。そして、心が動いてしまった。
ああ、いいなあという思いを、なんとか別の言葉で表わしたい。