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鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』【映画評】
鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』を観る。
内田百閒の小説がきっかけで、この映画を知ったわけではない。かつて写真に興味を持ち始めた頃、アラーキーとして知られる写真家・荒木経惟が映画の宣伝用写真、いわゆるスチール写真を担当したのがこの『ツィゴイネルワイゼン』だと知ったからだ。アラーキーに憧れてKonicaのBiGminiというフィルムのコンパクトカメラを振り回していた頃、内田百閒という名前さえ知らなかった。
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絵本『冥途』をきっかけに内田百閒を読むようになり、第2短篇集「旅順入城式」にある『サラサーテの盤』を鈴木清順監督が映画化したのが『ツィゴイネルワイゼン』だとずっと思い込んでいた。だが、今回観てみて、それが間違いだと気づく。
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たしかに『サラサーテの盤』が軸である。しかし『山高帽子』『花火』など他の短篇も翻案している。原田芳雄が演じる士官学校の元教授で雑駁な主人公「中砂」は『サラサーテの盤』に由来するが、藤田敏八演じる士官学校教授の「青地」は『山高帽子』の語り手であり、百閒自身がモデルである。
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どの場面が短篇の『サラサーテの盤』だ、『山高帽子』や『花火』だ、というような解題は、すでに40年以上も前の作品なので、検索すればいくらでも出てくる。根強いファンがロケ地を探訪して写真までアップしている。そのような分析は、先人に任せたい。
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敢えてあらすじを語るなら、こうだ。
中砂と青地は旅先の宿で、弟を亡くしたばかりの芸者・小稲と出会う。その1年後、中砂が結婚したというので青地が訪ねていくと、小稲と見紛うほどの新妻・園がいた。それでも流浪が好きな中砂は独り旅に出てしまう。残された園を青地は思い遣る。他方、病臥していた青地の義妹を、青地の妻・周子と中砂がなぜか一緒に見舞う。
しばらくして園は女児・豊子を産むが、中砂がもらってきたスペイン風邪にかかり、園は命を落としてしまう。遺された豊子の乳母として現れたのは、園と瓜二つの小稲だった。だが間もなく、中砂も旅先で変死する。
中砂が亡くなって5年したある夜、小稲が青地の家を訪ねてくる。中砂が貸したはずの本を返して欲しいという。そんなことが2度あった後、今度は中砂が貸したサラサーテ自作自演のレコード「ツィゴイネルワイゼン」を返して欲しいという。まめとはいえない中砂が生前、小稲に託しておいたとは思えない青地は、借りたレコードを抱えて、小稲のもとに向かう…。
このように、一つの無駄もなく、できるだけ短い時間の流れにおいて、絞り込まれた出来事がきりりと引き立つような短篇小説の味わいというものは、この映画にはない。ストーリーがないわけではないが、上記の説明で、この映画が解ったと言えるだろうか。明確な主題と主張、リアリティのある描写、絵画のような映像美というのとも違う。「共感」「キャラ立ち」「世界観」「設定」という要素で分析するものでもない。
奇を衒っているのでもなく、破滅を狙っているのでもない。現実なのか、幻想なのか、生者の営みなのか、死者のもがきなのか、事実なのか、真実なのか。分析的に観て、だれもが理解し、だれもが感動するような映画とはほど遠い。むしろ、解らないものを解らないままでいい。共感を押し付けられることなく、解釈をも突き放してくれる。そんな寛容さが心地よく、懐かしさすら感じた映画だった。
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