知覚の拡大は、共感の拡大だ
芸術家も哲学者も、生活上の行為をするための物事から注意を逸らし、むしろ生活に役に立たない視点からその物事を見ることで、物事の本質を見きわめることができるとベルクソンは説く。その考えを援用して、小林秀雄は「美の問題」をさらに突き詰めていく。
批評家の河上徹太郎や作家の今日出海など学生時代からの盟友をはじめ、文芸や骨董、美術など、幅広い交友関係を小林秀雄は持つが、文士としては群れず、孤高を貫いた印象がある。それが、共感する、友を呼び合うといった方向へ話が展開するとは、ちょっと意外だった。
いや、それは誤読である。
『私の人生観』から17年を経た1965(昭和40)年、初対面の数学者・岡潔と半日かけて語り合った『対談/人間の建設 岡潔・小林秀雄』において、二人は芸術においても意気投合している。
小林秀雄のいう「おもしろい絵」とは「自分の考えたこととか自分の勝手な夢をかく」絵のことであり、岡はそれを、自我が強い絵といっている。それよりも、物が描かれている絵がいいと二人は口をそろえる。自分の考えたこと、自分の勝手な夢というのが、生活における行動を目的とした知覚の表れであり、それを描いた絵は、「くたびれさせる」。だが、物が描かれているとき、その「物」は生活上の何の役にも立たない。行動から注意が逸れている。そのときに「物」の本質が見えてくる。絵にも表われてくる。見る者にとっても新鮮な発見があれば、「くたびれる」はずがない。むしろ内なる力がわいてくる。ベルクソンも『思考と動き』で、哲学者の注意の転換は、内的生命の領域で、変化の実体性が明らかになるといっている。
さらに二人は、個性と共感について話を繰り広げる。
芸術家も一人一人の個性は違う。見る側もそれぞれ個性が異なる。それでも、優れた芸術には共感できる普遍性がある。そして生きる自信がわいてくる。さらに共感が広がり、人の和もできる。
ベルクソンによる「知覚の拡大」は、小林秀雄にとってみれば、人の心の拡大であり、共感の拡大にほかならない。小林秀雄がベルクソンに心酔した気持ちを「思い出せる」ようである。
(つづく)